見出し画像

オタクが言う「愛がある」 is 何? ~ 「愛」の正体

同人の世界のオタク達が言う「愛がある」とか「愛がない」っていう表現ってなんでしょう?
ここで言う「愛」ってなんでしょう?

同人の世界、色んな人がこの表現を使っているのを見聞きしますし、事実私もこの表現を使ったことはありますし、私も人からそういう話題を振られることも多々あります。逆に、プロで仕事をしている人からは「愛があるって何?」と聞かれることもあります。
オタク達がなんとなく相互理解をしているその「愛」というものの実態は何なのか? 何をもって「愛がある」とするのでしょうか? 多分そこまで明確に語られることってあんまりないような気がするので、私なりの考えですが、この問いについて書いてみます。

この前書いた記事の内容とも被るところがあるかもしれません。

興味があればこちらも読んでもらうと良いと思いますが、読まなくても本記事の理解に支障はありません。

1.「愛」の有無は「内面的表現」の有無

上述のnote記事でも似たような言い回しをしたので二番煎じ感あるんですけれど、先に結論から言うと、

「愛」の有無とは「内面的表現」の有無

だと私は考えます。

では「内面的表現」とは何か?という話になるのですが、そもそも「愛」とか「表現」云々の話をする前に、「同人」ということについて確認しておこうと思います。

2.そもそも「同人」とは

同人(どうじん)とは、

「同じ趣味・志を持っている個人または団体」

と、大辞泉やWikipediaなどで説明されています。

この記事では2021年の現代における「同人」の文脈で話を進めますが、ざっくり超端折って言うと、「同人活動」っていうのは「同じ趣味・志を持っている個人または団体」による「ファン活動」なわけですね。一次創作であろうが二次創作であろうが。
一般参加者も「同じ趣味・志を持っている個人または団体」になるので、「ファン活動」というのは、描き手・作り手も読み手・聴き手も隔てがありません(もともと歴史的に原義の「同人」に遡ると、関係者・サークル内で本を作り、関係者・サークル内で読み回して楽しむことが目的であったため)。

「漫画が描くことが好きだから漫画の同人誌を発行する」という行為は「漫画を描くこと」に対するファン活動ですし、「好きな作品の二次創作を描く」のであればその「好きな作品」に対するファン活動です。
そして、「モノを作らない人達(=一般参加者)」の「読む」「聴く」「鑑賞する」といった行為も同じく「ファン活動」です。「プロの漫画家の作品でなく趣味で漫画を描いてる人の作品を読むのが好きだ」というファン活動だったり、「自分が好きな作品と同じ作品のことが好きな人(≒同志)が描いた作品を読みたい」というファン活動だったり……、人それぞれに様々な「好き」という感情があってその上にファン活動の形があります。

3.ファン活動に必要なエネルギー

「ファン活動」に必要なエネルギーは「好き」であることです。「技術」とか「地位」とか「肩書き」とかじゃないんですね。

「漫画を描くことが好き」にしても、「二次創作の元ネタにしている原作のことが好き」にしても、とにかく「好き」であることが最初の一歩、大前提になっています。

次に、その「好きだ」という自分の思いを「表現したい」という思いがやってきます。その「表現の形」が、絵だったり、漫画だったり、映像だったり、音楽だったり、小説だったり、詩歌だったり、コスプレだったり、評論だったり、手芸だったり、実際に会場に赴いて作品を入手するだったり、誰よりも早く新刊をゲットして読むだったり、誰よりも早く新作をプレイするとかだったり……、人それぞれの「表現の形」があって、それらが外界に表現(=アウトプット)」されます。

同人の世界において、
この「好き」という人間の感情(すなわちファン活動に必要なエネルギー)と、
「外界に表現(=アウトプット)されたもの」(すなわちエネルギーを使った結果、外界に形を伴って現れるもの)とは、
互いに密接に結ばれあっています

4.「内面的表現」と「外面的表現」

ここまでで何度か「表現」という単語を用いてきましたが、一言に「表現」といっても色々なニュアンスを含んでいます。

私は最初に1.の節で、

「愛」の有無とは「内面的表現」の有無

と述べました。「内面的表現」があるということは、その対をなす「外面的表現」という概念も存在します。

つい先ほど、3.の節で、

「外界に表現(=アウトプット)されたもの」

というフレーズを出しましたが、まさにこれが「外面的表現」です。

「内面的表現」「外面的表現」、その違いは文字通り、作品などの内面から溢れ出てくる「表現」か、外面にはっきりと出現する「表現」かの違いです。

まず、後者の「外面的表現」すなわち「外界に表現(=アウトプット)されたもの」は、

絵だったり、漫画だったり、映像だったり、音楽だったり、小説だったり、詩歌だったり、コスプレだったり、評論だったり、手芸だったり、実際に会場に赴いて作品を入手するだったり、誰よりも早く新刊をゲットして読むだったり、誰よりも早く新作をプレイするとかだったり……

といった、作品という形や行動という形で「表現」が外界に現れます
これは誰から見ても分かりやすいものです。完成した作品が目の前にあったり、実際に行動している人が目の前にいたりするので、視覚的に見て「表現」というものが実際に起きていることが分かりやすいです。

それに対して「内面的表現」とは、たとえば「線の表現」「色の表現」「音の表現」「曲線美の表現」「セリフの表現」「解釈の表現」「質感の表現」、主に作品などの中、作品などの内面に表される数々の細かい表現があります。

これは「可愛らしくて優しい印象を与えたいから曲線や円などの丸みを活かしたデザインにした」とか、
「積年の恨みを晴らすためにこの場面のこのキャラのセリフにはこの単語を選んだ」とか、
「ウキウキワクワクするような演出をしたいからこのリズムパターンを選んだ」とか、
「このキャラの設定は育ちが良くて実家も裕福ということできっと衣装も良いものを身にまとっているだろうから高級感ある質感が出る衣装を作った」
といった、色んな細かい表現が具体例として挙げられます。

これらの、内面に表される数々の細かい表現「内面的表現」です。

整理すると、たとえば絵や漫画や音楽や小説などの作品、コスプレやイベント参加などの行動といった形で表される表現は、「外面的表現」
一方、作品の中で表される数々の細かい表現や、行動に移すまでの意思決定などを左右している精神・思想・考え方などは、「内面的表現」と言えます。
言い換えれば、「外面的表現」は誰もがパッと見で分かる形そのもので、「内面的表現」は実際に本の中身を開いて読んでみたり、目を凝らしながら細部をよく見て観察しないと分からないようなものとも言えます。

5.「愛」の正体

3.の節で述べたことを再び引用します。

同人の世界において、
この「好き」という人間の感情(すなわちファン活動に必要なエネルギー)と、
「外界に表現(=アウトプット)されたもの」(すなわちエネルギーを使った結果、外界に形を伴って現れるもの)とは、
互いに密接に結ばれあっています

先述の3.の節ではこのように言いましたが、ここでの「好き」というのはただ単なる個人の感情で、
「外界に表現(=アウトプット)されたもの」とは先ほど説明した作品や行動などで表される「外面的表現」です。

「外界に表現(=アウトプット)されたもの」「外面的表現」と読み替えれば、

同人の世界において、
「好き」という個人の感情と、
「外面的表現」
これらは互いに密接に結ばれあっている

と言い換えることができます(代入)。

そして、「好き」という個人の感情と「外面的表現」この二つを強く密接に結びつけ合うために必要なのが「内面的表現」なのです。この「内面的表現」は、ハンバーグの調理で使うパン粉や片栗粉といった「つなぎ」のような役割を果たしています。

このように、「内面的表現」「好き」「外面的表現」の間でちゃんとつながれているか否かが、「愛がある」という風に解釈されることの実態だと思うんですね。そして、その「内面的表現」が多ければ多いほど、「愛が強い」「愛が深い」という風に解釈されるものと思います。

6.「内面的表現」の例

同人の世界における「内面的表現」、それがどういったものなのか、いくつか具体例を書き出してみましょう。

オリジナル(一次創作)だと、

「自分の考える最高にカッコいいと思うオリキャラを見てほしい」
「自分の考える最高に美しいと思うイラストを見てほしい」
「自分の作ったオリジナルのシナリオを読んでほしい」
「自分の作った最高にハイになれる音楽を聴いてほしい」
「自分の考える最高に尊いシチュを表現した漫画を読んでほしい」

などなど。オリジナルなので、自分の手で自分の思いを表現し、ゼロから作品を作ることそのものに意義があります。これらは後述する二次創作と比べると比較的シンプルに見えますが、実際にはこれらを表現するために更に、

「この表情を作るために顔を50回描き直したんですよ」
「友人から聞いたエピソードがすっごく面白くてそれを元にシナリオを組んじゃいました」
「このサウンド感を出すためにキックの音作りめちゃくちゃ凝ってるんですよ」
「このシチュが最高に尊くなるようにそれまでの展開の表現一コマ一コマに意味があるんですよ」

といったことがセットで大量に詰まっているはずです。小さな表現の数々ですね。

そして二次創作だと、ちょっと雰囲気が変わって以下のような形になります。

「このキャラの顔の良さを表現したい」
「このキャラのかわいいところをもっと見たい」
「この作品が面白いということをもっと自分の手で広めたい」
「このキャラがこういうセリフを言うところを想像したい」
「このキャラがこういう状況下でどう動くか自分なりの解釈を表現したい」
「AのキャラとBのキャラが出会ったらどうなるかを想像したい」
「A×Bの絡みが見たい」
「B×Aの絡みが見たい」
「このキャラたちが学校生活したらどうなるかを見たい(学パロ)」
「この曲のメロディが良いので自分で演奏したい」
「この曲のメロディが良いので他のジャンルにアレンジして聴きたい」
「このキャラのテーマがカッコいいので自分の表現でカバーしたい」
「この曲がオーケストラになったらどんな感じになるか聴きたい」
「このキャラが動くところを見たい(→自主制作アニメ・MMDなど)
「このキャラが三次元化したところを見たい(→コスプレ)」
「このキャラが現実にいてほしい!(→コスプレ)」
「このキャラが現実にいるところを写真に収めたい!(→撮影)」
「このキャラのグッズを作って手回り品に付けたい」
「あのキャラが作中で持ってる小物が現実に存在してほしい」

などなど。そしてこれもまた、一次創作と同様に上記の思いを表現するために、

「この表情を作るために顔を50回描き直したんですよ」
「友人から聞いたエピソードがすっごく面白くてその話をこのキャラに当てはめて演じさせてみました」
「このサウンド感を出すためにキックの音作りめちゃくちゃ凝ってるんですよ」
「このシチュが最高に尊くなるようにそれまでの展開の表現一コマ一コマに意味があるんですよ」
「ここの動きが自然になるようにめっちゃ計算して作ってあるんですよ」
「あの小物が入手できなかったので代わりに◯◯で代用したんですよ」
「衣装の色が映えるように光の入り具合を計算して撮ったんですよ」
「人前で使っても違和感がないようにデザインを工夫しているんですよ」

といったことがセットで大量に詰まっているはずです。

一次創作・二次創作共に、他にも色々あると思いますが、ひとまず思いつくものでこんな感じでしょうか。「愛の有無」「愛の深さ」は、こういった形で表現されてきます。どれも一次創作・二次創作問わず同人の作品や同人の表現でよく見られるものですね。これらの「内面的表現」は、同人の世界において、自分の「好き」という思いを作品などの形(外面的表現)にする過程で必ず織り込まれるものです。

これらの同人文化由来の「思い」は大前提として「好き」でないとなかなか発生し得ません。もちろん上記に列挙した項目のうちいくつかは、プロや商業の作品でも同人の作品と同じように表現されることがありますが、たとえ商業作家に「好き」という感情がありそれを存分に表現したとしても、クライアントからリテイクを受けて修正という形になってしまっては、作家は表現を変えざるを得ません。同人のように作家自身の「好き」を素直に表現できる環境とは異なり、これがプロ・商業の世界のプロ・商業たる厳しさの一つでもあります。

プロや商業の世界では、そもそも経済的利益が発生しないと商売として続かないので、利益を得るために色んな人が一丸となって様々な工夫や技術・戦略を凝らします。
しかし、「好き」であることが大前提である同人の世界では、「お金があるから」とか「これをやれば地位や名誉や利益を得られるから」とかそういったことが活動の理由にはなりません。
ここが「商業」と「同人」の根本的な違いであると言えます(もちろん同人活動にもお金がないと作品が出せないという紛うことなき現実は存在しますが)。

その人がどういったところに魅力を感じているのか、何が原因で「作りたい!」という衝動に駆られているかは人それぞれですが、いずれにしても、上記に列挙した項目は何かしらの「思い」であり、その根底には「好きだ」という感情が根を生やしています。「好き」という感情、そしてとりわけ何に魅力を感じているかをアピールするための「内面的表現」があり、それらが作品として形となった時に「外面的表現」として作者以外の外の人達の目に映るようになるのです。

7.「愛」を正確に表現するには「技術」がいる

ただし、「内面的表現」を正確に表現しようとすればするほど「技術」が必要です。かわいい絵・カッコいい絵を描くには絵の技術が必要ですし、良い音楽を作るには音楽の技術が必要です。

「このキャラの顔の良さを表現したいけど、50回100回何千回と描き直してもやっぱりダメだ……絵が上手くなりたい……神絵師になりたい……」

という人はごまんといるはず。

したがって、自分の「好き」という思い、そして「内面的表現」をたくさん正確に表現したいがために「技術」をつけた同人作家は多くいます。その結果「技術」が認められて同人からプロ作家になった人もいるでしょう。

しかしながら、通常、同人の世界では「技術の差」で争うことを良しとしません。「好き」であることが同人のファン活動の何よりもの原動力だからです。所詮同人というのはファン活動ですから、やった者が楽しければ勝ちなのです。
ですから、同人の世界には「技術」のある人もいれば、「技術」があまりないけど「好きだ」という思いを表現したいがために活動している人もいるのです。

同人の世界において、単に「技術力」によって表現の淘汰が行われない理由は、「作品のクオリティ」でなく「好きであるかどうか、その思い」が最重要視されているから、それがファン同士の暗黙の了解となっているから、と言えるでしょう。
通常、プロの世界では上手な人か、お金が稼げる人が生き残ります。しかし同人の世界では、上手な人も下手な人もその両方が共存しています。これは、3.の節で言及した、

「ファン活動」に必要なエネルギーは「好き」であることです。「技術」とか「地位」とか「肩書き」とかじゃないんですね。

ということを裏付けているでしょう。

それゆえ、「技術」でもって「内面的表現」がたくさん表現されている同人作品のクオリティは素晴らしいが、一方で「技術」のない同人作品が同人として劣ったものであるかというと断じてそんなことはない、と言えます。
「内面的表現」を正確に表現するには「技術」が必要ですが、だからといって同人において「技術」は必ずしも必要ではないのです。何より「好き」であることが最重要事項だから。

――それでは振り出しに戻って、冒頭では、

「愛」の有無とは「内面的表現」の有無である

と述べましたが、果たして「好きだ」という感情がない状態で出来上がった作品はどうなるのでしょうか? 

そこに「愛がある」ものに対して「愛がない」が意味するものが隠れています。

8.「好き」がなくてもモノは作れる

実は「好き」という感情がなくても作品を作ることは可能です。

ここでは便宜上、「元ネタ」が存在する二次創作の分野に絞って説明します。

先の3.の節でこう述べました。

「ファン活動」に必要なエネルギーは「好き」であることです。「技術」とか「地位」とか「肩書き」とかじゃないんですね。

その「好き」という思いがその後行動に移ると、様々な「内面的表現」を含有しながら、やがて作品などの形となって「好き」という思いが「外面的表現」として昇華されます。

しかし、そもそも「作品」を作ること自体に「好き」であるという思いは本来必要ないんですよね。

なぜなら、「技術」さえあればものを作ることは出来るから。

漫画を描く技術があれば、元ネタの作品について知らなくても、キャラクターを模倣してストーリーを独自に構成すれば、二次創作っぽい作品は出来ちゃいます。

音楽を作る技術があれば、元ネタの作品について知らなくても、原曲を耳コピして独自にアレンジを構成すれば、二次創作っぽいアレンジ作品は出来ちゃいます。

衣装や小道具を用意する技術があれば、元ネタの作品について知らなくても、キャラクターの衣装を模倣して再現して着用すれば、コスプレは成り立ってしまいます。

「好き」という思いがなくても、「技術」があればものを作ることは出来るんです(大事なことなので二回)。

9.「愛がない」ものとは?

もし、「技術を持った作者」が作業を始める前に元ネタについて取材する時、「技術を持った作者」が元ネタに対して「こういう部分が魅力的だなあ」と感じることがあり、そこに更に「技術を持った作者」の解釈が乗り、それが「内面的表現」として作品に含有されたものが出来上がると、それはオタクの判断で「愛のある作品」として認定されます。

「この作品今まで読んだことなかったけど、このキャラの生い立ちすごく良いなあ~~!じゃあ私も私の技術を使ってこのキャラを魅力的に描いちゃうぞ!」

みたいな思いが表現されたものは、その作者がたとえそれ以前までその作品のファンでなかったとしても、取材した時点でファンの一人になっているので、「愛のあるファン活動」や「愛のある二次創作作品」になるのです。
先に「技術」だけがあってそれまで「好き」という思いがなかったとしても、取材の間に「好き」という感情が芽生えそこに作者の解釈が発生さえすれば、いわゆる「愛を持った二次創作作家」と同じ立場として扱われます。

一方で、「技術を持った作者」が元ネタに対して「こういう部分が魅力的」と感じることがなく、あるいは元ネタに対して取材をする時間が取れず、ただ上からの指示通りに作業を進めていて、自分の解釈が乗ることなくただただ義務的に作品として出来上がったものは、作者の思いに基づく「内面的表現」が含有されていないため、オタクの判断で「愛がない」と感じてしまいます。

もし、上記のような「技術を持った作者」に「好き」という思いが発生しない場合でも、クリエイターに依頼を発注するクライアントが優秀であれば、オタクの「愛がない」判定を避けることができます。
クライアントの元ネタに対する理解が十分にあり、またクライアントに「こういうのを表現したい」という思いが明確にあって、その内容がクリエイターに対して的確に指示されていた場合、たとえ「技術を持った作者」に「好き」という思いが発生していなかったとしても、クライアント側の「思い」がクリエイターの「技術」によって表現される形になるので、これもまたオタクの判断で「愛のある作品」として認定されます。

しかし、クライアントがそのような「思い」が含まれた指示をせず、ただただ「こういう企画があっていくら払うのでこういう絵を描いてこの日までに納品してください」という事務的な依頼を出すに留まっていると、そこに「好き」という思いは含まれていないので、結果どこにも「好き」という思いが現れないまま作品として世に出てしまいます。
そして、オタクからは、

「愛がない」
「金儲けのために作品を使うな」

などといった意見が出ることになるのです。
(依頼を受けたクリエイターが機転を利かせると良い感じになることもある)

また、

「このジャンルが今ホットだからこのジャンルで活動してファンの数・リツイート数を稼ごう」

といった活動は、そのジャンルに対する思いや考え・解釈を持たないがために「内面的表現」が発生することがなく、これもまたオタクの判断で「愛がない」と判定されてしまいます。「愛がない」よりかは「ジャンル・原作・元ネタに対するリスペクトがない」と言われることのほうが多いでしょうか。

「こういう風に作っとけばとりあえずオタクは喜ぶでしょ」

のように「外面的表現」のガワだけで取り繕ったものは、やはりオタク達から「内面的表現」がないことを見透かされてしまい、これもまた「愛がない」判定を受けてしまいます。しかし「内面的表現」はそもそも中身を開かないと分からないので、外側だけを見て「愛がない」判定をするのは危険でもあります(後述)。

10.「愛がある」「愛がない」の意味するところ

結局のところ、

「愛がある」とは、「好き」に由来する「内面的表現」が出ているかどうか

に尽きます。

そして、

「愛の深さ」とは、「内面的表現の多さ」

と見て差し支えないでしょう。

それに対して「愛がない」という言葉の意味するところですが、そもそも「好き」という感情がないものは、「好き」に由来する「内面的表現」が芽生えてこないので、「愛がない」という判定になります。

また、商業的利益を得ることや新しいファンを獲得することが第一の目標になっていて、そのために「技術」でもって「内面的表現」がなされている作品は、その「内面的表現」が「自分の利益のため」のものであり、同人感情的な「好き」に由来するものでないため、同人文化の文脈から見て歪なものに映ります。結果としてこれもまたオタクから「愛がない」判定を受けたり、違和感を持たれたりします。

同人の世界のオタクは、クオリティの良し悪しでなく、「内面的表現」がなされていないものに嫌悪感や疑問を抱きます。また、同人文化の中で非同人的・商業的なものが台頭することに対しても同様に、嫌悪感や不安を抱くのです。

ところで、私の好きな『東方Project』のジャンルでの話ですが、島根県の離島・隠岐の島町が、地域おこしのプロジェクトとして『東方Project』とコラボしました。当初その発表があった際、ファンからは

「どうせ人気キャラクターのイラストだけオモテに使うような東方の知名度にあやかっただけのコラボなんじゃないか」

といったあまり期待のない声が少なくありませんでしたが、実際にコラボ対象として抜擢されたキャラクターは、ファンでない人でも知っているような主人公などの人気キャラクターなどでなく、隠岐の島町の伝説とも関わりがあると考えられる、舟幽霊の村紗水蜜でした。

これは結果的に多くの東方ファンに驚きをもたらし、(あくまで私の目に見えている範囲での話ですが)このコラボは大変多くのファンに歓迎されたと思います。
このコラボが歓迎されたのも、「島の利益のために東方Projectの人気にあやかる」ようなものでなく、あくまでこのコラボ自体が、「隠岐の島町という島・町の表現」であったからだとはっきり言えるでしょう。

11.「内面的表現」を享受する難しさ

「愛」の有無とは「内面的表現」の有無である

とのことですが、実は「内面的表現」を受け取るというのはそう簡単なことではありません。

そもそも元ネタ・原作のストーリー背景を知っていないと享受できない要素が描かれていたり、絵を描くことの難しさや音楽を作ることの難しさを知っていないとその素晴らしさや凄さが理解できなかったり、宗教的背景を知っていないとその民族の習慣的行動が理解できなかったり、そういった事象は、同人だろうがなんだろうがこの世界中で多数存在します。

元来、「同人」というのは「同じ趣味・志を持っている個人または団体」です。「同じ趣味・志を持っている」人というのは、本来「内面的表現」がどういったものであるかを既に知っている人であり、「内面的表現」をすることがどのくらい難しいかを既に知っている人なのです。
小さな同人コミュニティの中の世界に限って言えば、「同じ趣味・志を持っている」人同士でしか作品や物事の共有をしないので、かつてのそのような閉鎖的な同人環境の中では、「内面的表現」を享受すること自体が難しいとは認知されていませんでした。

しかし、同人の世界が広がり、オープンになればなるほど、多数の「内面的表現」が含まれた作品などが世に現れ、自分の専門としない分野の「内面的表現」を含んだ作品も身の回りに増え、それらの全ての「内面的表現」を理解し享受することは難しくなります。
人によっても好みの違いがあるので、

「この人の同人作品は多くの人に人気だけど、私にとってはあんまり……(not for me)」

ということが当然起こります。

「内面的表現」すなわち作者の「愛の表現」を享受するにも、読み手・受け取り手のセンスや知識が必要であるということは否定できません。
故に、「内面的表現」が感じられないからといって「愛がない」判定をすることは危うい判断だと言えます。

なぜなら「愛がない」と感じてしまうのは、

自分の感受性や知識が、その愛を享受・理解できるほど豊かでない可能性を孕んでいるから、

もしくは、

「内面的表現」の根っこにある「好き」の対象が自分と異なっていて「内面的表現」を受け入れられない場合があるから(俗に言う「解釈違い」

です。
これも、人の「好き」という感情を否定しないことがベースにある同人の世界で「自分が気に入らない他の人の表現を阻害しない」という暗黙の了解が備わっている理由を裏付けしています。

12.変わりゆく同人世界

日本の同人文化自体は長く続いています。現にコミックマーケットの歴史だけを見ても、第1回目のコミケットが1975年開催、昨年2020年は夏冬共に開催こそされませんでしたが、今年2021年の冬で第99回目を迎え、その間46年、同人として漫画を描く文化自体がコミケットが始まる前からあることを考えると、少なくとも50年以上の歴史があることが窺えます。

そして現代では、インターネットやSNSのサービスが発展し、オンライン上でもファン活動が頻繁に行われるようになりました。それによって同人文化を知る人口も大変多くなったと思います。しかし、こうして同人文化が以前よりもオープンになった一方で、「数字」というものが、良くも悪くも意識されるようになりました。

たとえばTwitterのようなサービスだと、気軽に創作物を全世界に向けて発表することができるという恩恵がある反面、その性質上どうしても「技術のある人」と「技術のない人」が同じ土俵に上がることになってしまいます。そして、いいねやリツイートの数字という形で、「技術のある人」の作品と「技術のない人」の作品を、数字の大小によって比較することが容易な状態になっています。

そして先の節で述べた通り、「内面的表現」を享受するにも受け手の知識やセンスが必要です。一般の人や、同人文化に疎い人の認知からすると、そもそも同人文化がどういうものか、同人文化がどういう歴史的経緯で発展してきたものか、何より「好き」であることが大事だという前提を詳しく知らない人もいるでしょう。

こういった状態が重なり合う現代で、何が起こるかと言いますと、「技術がある」ことを「愛がある」と短絡的に考えて錯覚してしまうケースが発生し得ます

また「内面的表現」を自ら検証することも、自分の「好き」という感情に真摯に向き合うこともなく、「知名度がある作品」を人気があるからという理由で「きっと愛のある作品なのだろう」と安易に決めつけてしまうケースも発生し得ます。

あるいは、「下手なのは愛が足りてないから」という同人文化にとって歪んだ解釈も発生し得るかもしれません。

インターネットがよりオープンになったことで、表現の手段や活動の手段がより多彩になったと考えられる反面、「技術のある人」や「知名度のある人」の台頭がどうしても強くなり、結果的にインターネットが弱肉強食とも言えるような世界になりつつあることは否めません。
「技術を持たざる者」「知名度を持たざる者」にとっては、そんなネットの大海原で、かつての同人文化のような「小さなコミュニティ」の中で「内面的表現」を共有・共感し合うという活動の仕方を探す、という選択を取ることも簡単なことではないように思います。現にワンドロを始めるためにTwitterを開設したと思わしき新規ユーザーが、1~2ヶ月経つと消えているようなことが……。
逆にpixivFANBOXが流行するのは、そういったかつての同人文化にあった「小さなコミュニティ」への回帰の一つ、とも解釈できますが、これは専ら「技術のある人」向けのサービスになっていることも否定できませんね。

ある意味、こういった現象があるからこそ、インターネットが発達した現代においてリアルの即売会は意味があるとも考えられています。コミケのようなリアルの同人誌即売会では、ネット上で注目されない人であっても皆等しく活躍の場を与えられ、そこにリアルイベントの大きな価値があるからです。これはリアルの同人誌即売会が衰退しない理由の一つになっているとも解釈できます。

しかしながら、

「もう即売会は、知らない作品と出会うような時間的・体力的余裕のあるような場所でなく、知っている人に会い、知っている人の作品を手に入れるだけで精一杯の場所になっている」

という意見や、

「即売会で作品がいくつ捌けるかは、イベントが始まるよりずっと前の広報戦略から既に始まっている」

という意見もあります。こういった現実も、今後初めて同人のファン活動を始める人にとって、ハードルの高さを感じやすい要因にもなっています。
もし、同人誌即売会が「『技術のある人』の『技術ある作品』が欲しい」という欲求を叶える場として機能してしまうのであれば、同人誌即売会における一般参加者の「お客様化」は避けられません。またリアルイベントでなくとも、Twitterで、「お前は絵だけ描いて投稿してればいいんだよ」と言わんような態度を作家に直接向けているような場面が見受けられることもゼロではありません。

このような、「数字主義」であったり「技術主義」・「知名度主義」的な考え方が台頭しつつあるかもしれない昨今の同人文化の現状を見ると、もしかすると「好き」を大前提として行われる同人のファン活動の原則は崩れつつあるのでしょうか。

そうなると「技術を持たない人」「知名度を持たない人」「ファン活動を始めたいと思う人」は、「好き」という感情をどのようにして昇華させて、どのように同志の人から「これ良いよね!」という共感を得ればいいのでしょうか?

今後の同人文化がどのように変化していくのか。おそらく「好き」という大前提の感情を忘れない人々が残り続ける限り、その同人文化の思想は生きながらえると私は信じています。その同人文化を維持していくために、今後もよりオープンになり続けていく同人の世界が、この先どういう動向を辿っていくのか、同人における「愛」が形骸化していく可能性を恐れつつも、「好き」であることを愛する者の一人として、これは非常に関心の深い事柄だと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?