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#大地の手触り

サンテグジュペリの「人間の土地」を片手に、時々砂漠に思いを馳せる。



砂粒に全身をゆだね、皮膚が切れるくらい肌を擦り込みたい。
渇いた風に、喉が裂けるような嗚咽を吹き込みたい。
小指で地平線を辿りながら、朝を待ちたい。




みっともない妄想に埋もれながら、手触りを求めて、もがき続ける。

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道具が人間を剥ぐ


人間は大地の手触りを失った。
刃は手を獣から離し、椅子は尻を土から離し、衣服は皮膚を風から引き剥がす。更に、街はそうした道具の集合体であり、人間を自然から完全に遠ざけて、孤立させる。これは、マクルーハンのメディア論の骨子たる"the Extensions of  Man"のイメージに近しい。
資本主義システム(労働、企業、資本)という構造も人間から手触りをはぎ取る。そして皮を剥がれた我々に最後に残されるのは漠然とした存在への不安だけだ。


つまり大地との接点を失い、人間存在の不確かさが露呈し、焦燥を生む。
21世紀に生きる我々にとって、太陽の熱も、風の匂いも、砂粒の厚みも、ノスタルジックな遠い記憶に過ぎないのだ。そのことが我々の日常における不安感の本質的な根源ではないかと考える。

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インターネットと人間存在

和辻の風土に関する検討を援用すると、我々は風土を甘受し道具により働きかけ、公共性の前提の下で自己理解に至る。つまり和辻の見解によれば、「風土⇒道具⇒人間」の3段階構造が成立し、人間の存在が意義付けられる。

ところが、現代の我々は旧世代的な道具(広くアナログの意)と電気信号(デジタルの意)に覆われ、風土を甘受する余地などないのではないかと考える。太陽の熱に実感を持てない我々にとって、風土は抽象的概念に過ぎないといえるのである。では、何を以って人工理解に至ればよいのか。そこが現代における最大の議論足りうる。


また、人工物により自然から切り離された我々の存在は道具により一つずつ機能をはぎ取られ、やがて極限まで矮小化する。究極的に機能を失った電気信号時代の私たちはどうやって世界に接続し、自己を語ればよいのだろうか。私たちは今圧倒的に不確かだ。

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バーチャルリアリティーにおける自然回帰の可能性

昨今のサブカルチャー領域における、いわゆる「ゼロ年代セカイ系」的な言論は、こうしたコンテクストの基に成り立つと考える。(ゼロ年代のみなら21世紀に共通するテーマであることを新海誠がその生涯をかけて証明するつもりであろう。)つまり自然への手触りを失い、「君/僕」という半径数メートルの関係でしかセカイを語れなくなったのである。その意味において、「セカイ」とは和辻的な意味合いでの「風土+公共性」ではないかと考えている。


特にこのゼロ年代という時代はデジタル文明の発露の時代であった。旧世代において確立されたアナログ的制度・文明は十分視覚的に補足可能であったため、その可視的構造で「セカイ」と媒介物と我々の位置づけが判然としていた。ところが、ゼロ年代は電気信号の時代の始まりである。ほとんどブラックボックス化された先進技術の中で、構造は透明化され、自然と我々は仮想的に再接触を果たす。

しかしその自然との再接触が、健全な意味での大地の手触りの再獲得であるかについて、私には少々疑念がある。一度自然から切り離された我々の存在は上述のとおり極限まで矮小化されており、バーチャルリアリティーとしての自然体験のみで本質的な自己理解へつながるのだろうか。つまり、仮想世界で私たちは厳密には自然を支配できておらず、認知不可能な媒介物の魔法で自然に触れていると勘違いし続けるしかないのではないだろうか。

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もう一度大地に触れる

道具以降の世界で大地の手触りを再獲得する方法は一つしかない。


道具の支配である。


仮想現実における自然の支配は、道具による被支配にすぎず、錯覚である。
我々は再度「自然⇒道具⇒人間」の構造を認識しなおし、媒介物である道具を支配することで、自然に自在に接触するしかない。その大地の手触りの先に待っているのが、自己理解であり、これこそが人間の尊厳である。

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人間の尊厳

以上を踏まえて、私はサンテグジュペリの「人間の土地」の最後の1節を思い出す。

精神の風が、粘土の土を吹いてこそ、人間は創られる。


大地の手触りが恋しくて仕方ない。

それを受け入れ、孤独に抗うことこそが、我々に許された唯一の人間らしい矜持ではないだろうか。


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