「ハプスブルクの鏡」 ③
「ハプスブルクの鏡」④
真夜中のピアノの調べ、《悲愴》第2楽章……。
ぼくは静寂の世界に染み渡る自分の音に酔いしれながら、ろうそくの光に照らし出されるハプスブルクの鏡をひたすら見つめ続けた。
一瞬、鏡が深い呼吸を始めたかのような、空気のゆらぎを感じた。足音? そしてかすかな衣擦れの音。ぼくの読みはやはり正しかったのか!
「シュテファ〜ン」
地獄の底から響き渡る、世にも恐ろしく低い声。
その時になって、今しがたの足音の正体を知った。怒りを押し殺したその声の主は、紛れもない……。
覚悟を決めて、ぼくは背後を振り向いた。
ろうそくの炎に亡霊のように浮かび上がる、氷の表情の我が母親と、怯えた瞳でこちらを見る、ガウン姿のユイがそこに居た。
翌朝は目も覚めるような見事な青空に恵まれたが、ぼくの身体中の神経は麻痺したように眠りこけていた。
意識は……マイヤーリンクの狩猟の館。ルドルフが心中した場所だ。十代の男爵令嬢と。
誕生時、既に大佐の称号を授かり、軍人として育てられた皇太子ルドルフ。
安らかに眠る枕元で、厳格な教育係にいきなり銃をぶっぱなされたり、訓練と称して、死の恐怖を味わうほどの水責めに合う。
皇帝としての責務に没頭する父親。
厳しい宮廷生活から逃れるように、転地療養の旅ばかり続けていた母親。
両親は息子の教育に関わり、親しく接する機会を得ようとしなかった。
そのつけが、拳銃自殺という形で回ってきた。
心中自殺は見せかけで、実は暗殺されたという説も否定しきれず。ルドルフの政治的見解は、説得力に乏しい独善的なものであり、従兄と共に、他国の不穏分子との政治的陰謀に加担している疑いもあった。
しかし証拠はすべて隠滅。従兄は爵位を剥奪され、後に行方不明となる。
マイヤーリンクの館は取り壊され、礼拝堂が建てられる。そこに設けられた祭壇で、母エリザベートは祈り続けた。
そして今では、祭壇の脇にエリザベートの彫像が佇んでいる。左の胸に刃の刺さった、涙を流した彫像が。
ピアノの音が聞こている。静かな調べ。あれはリストだ。〈ペトラルカのソネット〉。夢を見ていたのか。マイヤーリンクだった。哀しく、空しい夢。
リストの激しく、華やかな作品よりも、こうした穏やかな曲が好きだな。きっとユイもそうに違いない。それとも寝坊しているぼくを気遣ってくれてるのか。
曲が変わった。今度は〈ジュネーヴの鐘〉か。優しい音楽に包まれて眠れるとは、何と幸せなことか。ぼくは再びまどろみの世界に落ち込んだ。
たとえ放浪の妻であろうとこよなく愛し、
常に旅先での彼女の身を案じていた皇帝フランツ・ヨーゼフは、執務室に入ってきた、普段は冷静な侍従長のただならぬ様子に、電報の内容を確認するまでもなく悲報を察した。
「あらゆるものが、この世ではわたしから奪われていく!」
有名であれば、誰でも良かったのだ。
当初のターゲット、フランスの要人が旅のルートを変更した為、無政府主義者のその青年は、エリザベートに矛先を向けた。
レマン湖のほとり。
エリザベートはお気に入りのチョコレートを購入し、お伴の女性と蒸汽船に向かって桟橋を歩いていた。
つかつかと歩み寄って来た若者にいきなり突き倒されるが、気丈にも自力で立ち上がり、乗り遅れまいと足早に船に駆け込む。
蒸汽船が出港した後、突如倒れるエリザベート。
凶器は三角形の鋭いヤスリ。刺されたことに、彼女は気づいていなかった。
すぐさま船は岸辺に戻されるが、エリザベートは静かに息絶えた。
放浪の旅先における死。彼女が愛した詩人、ハイネのごとく。
息子ルドルフ亡き後、黒衣の喪服を身にまとい続けた哀しみの聖母に、ようやく訪れた平穏の世界。
目が覚めてから、ぼんやりと考えた。
皇帝フランツ・ヨーゼフの身内に次々と襲い来る死。次は甥の皇太子か。フランツ・フェルディナント大公。
気がかりなことが、ひとつあった。
「ねえ、オーパ。皇太子ってどんな方でした?」
リビングでは、祖父が一人で新聞を読んでいる。チャンスとばかりに、ぼくは聞いた。ハプスブルクの鏡の話も、祖父が皇太子に会った話も、ユイとぼくと三人だけの秘密だから、両親の前では話せないのだ。
「王族特有のオーラというか、独特の威圧的な雰囲気があったりして?」
祖父は新聞を置き、しばし遠くを見つめてから、ゆっくりと答えた。
「誰に教えられなくとも、肖像画でお顔を拝見していずとも、一目で皇太子とわかる。そんな威厳は備えておられたねえ」
「急進的で過激な性格だったらしいけど。おっかない感じだった?」
ドアが開いた。ユイだった。家に居たのか。母さんが買物にでも連れ出したと思ってた。
「おはよう」
「おはようございます。紅茶でも頂こうと思って」
「ぼくらの分も、頼むよ」
ユイはうなずき、キッチンに入った。どうもそっけない感じ。やはりぼくらの恋──、いや、ぼくの恋は、はかなくも消滅するのだろうか。
「オーストリア陸軍の総司令官も務めておられたし」
祖父が話を戻す。
「逆らう者は容赦しない雰囲気は、もちろんあったねえ」
「その……、額を抜ける時、すごい顔でにらんでたんでしょ」
「皇太子も皇帝も、狩猟の時は、人が変わったように残忍になったらしい。狙った獲物は必ず仕留める。あの場合も、断ることなどできなかったろう。決して」
「嫌って言ってみたかったなあ」
「シュテファン、たとえお前でも無理だよ。何しろあの皇太子殿、たったの一日に三千羽近くものカモメを撃ち落とすくらいの神経の持ち主だから、何をされるか知れたもんじゃない」
「ひどい話ですね」
カップを用意しながら、ユイが悲鳴をあげた。
「鹿だって何千頭も殺しておるんだ」
「それを言うなら、皇帝は?」
ぼくは話の核心に触れた。
「皇帝は生涯に渡り、何万頭もの鹿をも仕留めたんだそうな」
「わたしの聞き違いじゃないと、いいけど」
ユイが低い声で口を挟んで怒りをあらわにする。
「つまり、皇太子にしても、皇帝にしても、それだけのことをした代償は──」
「鹿の呪いが、我が身に、身内にふりそそぐ」
こともなげに、ユイが言った。言いにくいことずばりと言ってくれるじゃないか。
「しっ」きつい表情で祖父が制した。
「壁に耳あり。ハプスブルク家の悪口など、言うべきではない」
「ああ、わかってますよ。代々この家系は民に愛されてきたからね。骨肉の血生臭い勢力争いも殆どなし。暴君も独裁者も登場せず。政略結婚を手段に、戦争も極力回避された」
「戦は他の国にさせるが良い。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」
祖父がラテン語の有名な詩の一節をつぶやいた。
「その昔、この政略結婚が異常なほど功を奏したんだ」ぼくはユイに説明した。
15世紀から16世紀にかけて、ブルゴーニュ、スペイン、ボヘミアを含むハンガリーの、それぞれの王家とハプスブルク家の三世代に渡って、数組の婚姻がなされる。
ところがその後各国で、結婚相手のみならず、その親戚でもある王位継承者が、事故や病気で、まるで申し合わせたように次々と他界。落馬事故、病死、あるいは精神に異常をきたし、幽閉されるなど。戦場で散った若き勇敢な王子もいた。
ヨーロッパのほぼ全域と、新大陸から極東のフィリピンに渡る植民地をも含む広大な領土は、必然的にハプスブルク家のものとなり、戦わずして「日没なき世界帝国」が誕生したのだった。
「本当に事故だったのかしら? 病気にしても……、毒を盛られたとか?」
ユイのひと言に、部屋の空気が凍りついた。
「きみ、恐いこと言うねえ」
外国人というのは恐れを知らぬものだ。ハプスブルクが刺客を放ったと? そんなこと、ぼくたちは誰も思わないし、気づきもしなかったことだ。第一、不可能だ。
ユイは続けた。
「そのつけが、フランツ・ヨーゼフの時代に回ってきたとか」
「つまり、皇帝や身内に相次いでふりそそぐ不幸は、先祖代々にわたる過去のしがらみ、あるいは無駄に殺された何万頭もの動物の怨念とでも?」
「滅多なことを言うではない!」
祖父の一喝で、呪いの話は終了の運びとなった。
祖父は日課の散歩に出かけ、ユイは軽いブランチを用意してくれた。昨日夕食抜きの、気の毒なぼくの為に。
チーズ入りふわふわオムレツに、トマトのスライス添え。絞りたてのオレンジジュース。ほどよく温められたゼンメルパンの香ばしさ。彼女はピアノだけのお嬢さんではなく、料理のセンスもいい。包丁だって堂々と使いこなす。何気ない日常の、幸せな時間。ずっと彼女と一緒にいたいな。ユイがこうしていつもうちに居てくれたらな。
「シュテファン。夕べのことだけど」
ユイがテーブルの反対側の席につき、思いつめた表情で話しかけてきた。警戒警報発令。
「わたしの《悲愴》が気に入らないのなら」
「そんなこと!」ぼくは椅子から転げ落ちそうになった。
「東洋人が、ベートーヴェンを弾くのが許せないと言うなら」
目には涙が浮かんでいる。
「違う。それは完全なる誤解だよ。きみの音楽が、ぼくは大好きなんだ。東洋人だろうが、アメリカ人であろうが、国籍なんて、関係ない」
ぼくはテーブルの上に組まれた彼女の両手に、そっと自分の手を重ねた。白魚のような優しい手。こんな華奢な手から、あんなに凄い音楽が生まれてくるなんて。
「この何週間か。きみのピアノに包まれての生活が、ぼくにとってどんなに幸せだったか」
涙がポロポロ流れ落ちる。大粒の涙。
「大丈夫だよ。安心して。自信を持って」ぼくは必死に慰めた。
「ごめんなさい」涙を拭いながら、ユイは言った。そしてふっと、はにかんだように微笑んだ。
「ありがとう」
「ほら、やっぱりきみは笑顔も、最高に素敵なんだから」
その可愛らしさに気絶しそうになりながら、ぼくはようやく言った。
「夕べのぼくの行動は、ただ……」
鍵が「音楽」だと思ったから。しかも彼女がたまたま《悲愴》を弾いていたから。
「すべては……、鏡のせいなんだ」
無防備にもたった一人の側近とのみ、街へ散歩に出かける若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。
襲い来る暗殺者がふりかざす鋭い刃。
側近と、たまたま居合わせた肉屋の男が暴漢に飛びかかる。
皇帝は辛くも無傷で死を免れた。
肉屋の男には貴族の称号と、館やたくさんの財産が与えられ、
皇帝の弟はその場所に教会を建てることを提言した。
あとは知ってのとおり。
感謝の祈りは、果たして神に届かなかったのか。
── もしもあの時、わたしが殺されていたら ──。
何だって?
皇帝のつぶやきを、ぼくは聞いていた。
広間ではユイがいつものようにピアノを奏で、ぼくはソファに座り、相も変わらず鏡の中に映るハプスブルクの世界に思いを馳せていた。
そうだ。仮に皇帝が若いうちに暗殺されていたとしたら、弟のマクシミリアンが帝位を受け継いだはず。彼がメキシコで処刑されることもなく、皇帝とエリザベートとの結婚もなく、息子ルドルフも生まれない。
よって一連の悲劇は起こらなかったわけだ。
── もし、あの時、わたしが暗殺されていたら ──。
予定外の肉屋の登場で、死ぬはずだった自分の運命の歯車が狂ってしまった。
その代償が肉親の死。
皇帝はそんな想いを誰に話すこともなく、生涯抱き続けてきたのだろうか。
── こうして何もかもが我が身にふりかかる ──。
それは皇帝の口癖と言われていた。
ハプスブルク家のこの鏡は、皇帝の嘆き、つぶやき、そして声にならない声を聞き続けてきたのだろうか。
歴代の皇帝のみならず、家族や側近、宮仕えの者の声までも。同じ空間を共用する、ありとあらゆる人々の、心の声を。
空想と、現実と、……幻。
ぼくは画家として、見えないものを見いだして、創り出してゆく習性があるのだから。幻が見えて、当然なんだ。何ら恐れることはないのだ。ハプスブルクのこの鏡は、ぼくの想像力をかき立て、感性を磨ぎ澄ましてくれる、新しい世界なのだから。
鏡よ。ハプスブルクの鏡よ。血塗られた歴史ではなく、美しく、幸せな過去を、もっと素晴らしい世界を描き出してはくれないものか。
鏡の前に居るのは、皇太子フランツ・フェルディナント。
祖父が会った頃の彼だろうか。誰かと激しく言い争っているようだ。
相手は? ……皇帝か。到底勝ち目はないだろう。いや?
立ち去ってゆくのは皇帝のほう。
皇太子は激情にかられ、銃を抜き放った。
皇帝が出て行った方向に向け、撃つそぶりを見せる。
それから銃口はこちらに──
それが何の意味をもなさないことは、わかっていた。
しかし立ち上がらずにはいられなかった。
体は自然と、本能的に、銃口とピアノを弾くユイの間に割って入る。何のためらいもなかった。できるだけ、鏡の近くに!
その時になって初めて、ぼくは自分が全身全霊で彼女を愛してることに気づいた。命をかけて彼女を守ろうと。
皇太子は銃を持つ腕をゆっくりと回し、鏡の正面へと向けた。
それから催眠術にでもかかったように銃口を自身のこめかみに当て、引き金に手をかけ──
「いけない!」
ぼくは鏡に向かって叫び、皇太子に飛びついた。
「ハプスブルクの鏡」④(終)へ……