「セピア色の舞踏会」ファンタジー短編(全3章) ①
「セピア色の舞踏会」①
重厚な歴史を持つ図書館の奥深い棚の隅で、その写真集は何年もの長い長い時を静かに過ごしていた。
静かにといっても、それはあくまで表向きのこと。何しろ舞踏会の写真集なのだから、本の中の被写体連中が、どうしてじっとしていられよう。毎夜のごとく楽士らはウィンナワルツを奏し、紳士淑女たちは──そのページの範囲内ではあるものの──、華麗なダンスに興じていた。
「宮廷舞踏会」関連書籍の閲覧を申し出た青年アントンは、待つこと15分。知性と自信にあふれたベテラン司書によって厳選された数冊の蔵書の中、アラベスク模様が美しい装幀の、横長の写真集に引き寄せられた。
「典雅なる舞──世紀末の舞踏会場」
表紙のポストカード大の写真は上品なセピア色。ハプスブルク帝国が栄華を誇っていた時代に生きた、燕尾服やロングドレスに身を包んだ美男美女たちが華麗に舞い踊る瞬間が、見事な構図で切り取られている。
一目で気に入り、借り出し手続きを終えたアントンが、晴れて写真集を受け取った瞬間──、
シャンパングラスの響き合い、
くすくす忍び笑い。
弦楽器のチューニングに、
駆け巡るピアノの華麗な音階。
深夜のテラスでの愛の語らい……
そんなざわめきが聞こえた気がしたが、それは高くアーチを描く天井の壮麗なフレスコ画を代表に、建物自体が歴史的建造物であり、古代から中世の古文書までが厳重に保管されているこの図書館の、遙かな歴史の重みが感じさせた錯覚に違いないと、アントンは決めつけた。
写真集を小脇に抱え、宮廷舞踏会で踊り明かして早朝の家路に着く紳士のような気分に浸り、浮き足だった青年の心に、往年のあらゆる種類のワルツが鳴り響いてくる。
「ああ、せめて1曲でも!」
彼は憧れに満ちたため息をついた。
自分がこんな時代に生きていたなら、ワルツの1曲でも書けただろうにと思いを巡らす。だからこそ、こうした生きた資料が必要なのだ。
「何か名曲が書けたらなあ! そしたら、音楽史の1ページに、たとえ片隅にでも名前を残せるんだ。『アントン・ヴァイス』とね」
4階建てアパート最上階、大家からただ同然で借り受けているつつましやかな屋根裏は、およそ部屋というにはほど遠く、がらんどうの倉庫といったところか。
天井は普通の青年が背を屈めずに歩き回れる充分な高さがあり、間仕切りのない広い空間には、しかし家具といえばソファ兼用の簡易なベッドに衣装ダンス、楽譜が整然と収められた、引出しの開かないアンテーィクの本棚、冬は陽の光の貴重な暖を、夏は涼風を届けてくれる小さな窓際の食卓兼用の物書き机くらい。
そして部屋の中央に鎮座するのは、およそ百年前の由緒あるピアノ、ベーゼンドルファー。恋人もなく、施設育ちで身寄りのないピアニスト、アントン・ヴァイスの唯一にして最高級のパートナーだ。
オーブンでカリカリに温めたゼンメルパンとソーセージのささやかな昼食を終え、とっておきアウガルテンの器〈ウィーンの薔薇〉に珈琲をしっかり入れて、アントンは机上に散らばった白紙の五線紙に向き合った。
新曲を書くのだ。
そしてこれは、文学であれ音楽であれ、創造という使命を課せられた者の多くが習慣的に行ないがちな一種の逃避行為なのだが、アントンの場合もまたしかり。五線紙を脇に追いやり、先の写真集を手にとった。
オーケストラのリハーサルで、指揮者が「さあ始めますよ」とばかりにコンコンと譜面台を軽く叩くと、それまで好き勝手に練習していたあらゆる楽器の騒々しい音がぴたりと止む瞬間を、皆さんは体験したことがおありだろうか。全員が、息をひそめてマエストロの一挙一動に注目するあの瞬間を。
アントンがまず最初に、ちょうど真ん中くらいの見開きページ、舞踏会場全体が写し出された、いわゆるクライマックスのシーンをぱらっと開いた瞬間、ぴたりとそれが起きた。
それまで何とはなしに耳にしていたすべてのざわめきがこの世から消え去り、ただひたすらの静寂が、辺りを支配する。すべての時間は凍りつき、異様なまでの緊張感。
あるいは生徒が大騒ぎしていた楽しい教室に、鞭を携えた鬼の担任が容赦なく踏み込み、全員が大わらわで一斉に着席する様。何やらそんな不穏な気配が感じられたのだ。
だからといって何事かが起こるわけでもなかった。
深呼吸で気を取り直し、写真集を初めのほうから順にめくっていく。何とも絢爛豪華な舞踏絵巻てはないか。
舞い踊る男女のロングショットやクローズアップが何組も何組も。
どうやら仲違いの若いカップル。
噂話に花を咲かせていそうな女性たち。
中庭で葉巻をふかす粋な燕尾服の男性陣。
首筋から腕のラインが見事に美しい麗しの貴婦人は、若者の誘いを体よくお断りしている様子。
夜露のきらめくテラスには無言で愛を語らう恋人どうし。
ソファでくつろぎ優しく手を重ね合う初老の夫婦。
噴水の前でひざまずき、想い人に一輪の花を捧げる青年のシルエット。
──ふと音楽が。コリント様式の柱にもたれ、夢見る瞳で1人佇む女性は、どうやら楽士の奏でる音楽に耳を傾けているようだ。
ああ、先ほどの麗しの貴婦人ではないか。アントンは数ページ前の写真を確かめた。絶世の美女というほどでもないが、どこか魅力的。
一度見たら忘れられない独特の雰囲気、一種の生命感というものを、彼女だけがかもし出しているようだった。
皆がどんちゃん騒ぎをしていた気配の、あの見開きページに戻る。ここにも彼女。群舞に加わらずただ1人、やはり広間の隅に佇んでいる。壁の花にしては惜しすぎる存在感。パートナーの腕が空くのをひたすら待っているのだろうか。憧れに満ちたまなざしを、舞踏会場のどこかに、誰かに向けている?
そのつつましやかな姿といったら!
洗練され、落ち着いた大人の女性の雰囲気からして、歳の頃は自分よりは幾らか上のようだが、年齢を重ねても、きっと変わらないであろうその純粋な可愛らしさといったら!
アントンはもうすっかり見惚れてため息をついた。
「ぼく、こんな人がいいなあ!」
そして彼女の幻の相手を、心から羨ましく思った。
セピア色の写真の、その女性の頬がポッと薔薇色に染まる。
西日が差し込むにはまだ時間が早かった。むろん錯覚と信じたかったが、青年の容赦ない好意的な視線に耐えかねて、彼女が恥じらいながらそっとこちらを見つめ返した時には、アントンはさすがに飛び上がって、本をバタン! と閉じてしまった。
何が起きたのか……。
指は本に挟んだままだったので、もう一度そのページを、今度はそっと開いてみる。
何も起こらない。
そりゃそうだ。彼女と視線を交わすことなど、ありえないはずだもの。
何度か本をパタパタやってみる。閉じたり、開いたり。そのうちに、永遠の時に渡って本のどこかに封じ込められていた塵が舞い上がったか、くしゃみが。は、は……、
「はーっくしゅん!」
正面の窓辺から天井、両側の壁に向かって、本の中の面々が写真から引き伸ばされて飛び出しかけて、すぐさま元の鞘に収まったかのような光景が巻き起こった。
アントンは人形のように硬直し、視線は定まらないまま机の先、窓の外に広がる青空に顔を向けていた。
もはや錯覚などではない。
心当たりがなくもなかった。彼にはかつてピアノを弾きながら、楽譜に記された音符をくしゃみで吹き飛ばした前歴があるのだ。
逃亡したシャープ記号をひとつ取り逃がしてしまった以外、残りの連中にはその場で譜面にお戻り願ったが、音符の幾つかは、すまして違う場所に身を忍ばせた。しかしそれが中々粋なアレンジとなっていたので、アントンは大目に見てやった。おそらく作曲家自身も迷った箇所に違いない。「くしゃみ改訂版」こそが、本来あるべき楽譜の姿だったかも知れなかったから。
「早く……」
声が聞こえた気がした。どこから? 本の中? ついに気がおかしくなってしまったか?
「助けて。早く」
いや、もっと別な場所。今度ははっきりと。すぐ近く、窓の外から?
「早く!」
事の重大さを察し、アントンは机を踏み台に窓から身を乗り出した。
窓枠の外に、かよわき女性がぶら下がってる!
細身ではあるものの職業柄、腕っぷしには自信があった。彼はすぐさま渾身の力で女性を引き上げようとして、あまりの軽さに彼女もろとも机上をとおり越して部屋の中にひっくり返ってしまう。相当痛かったがそれどころではない。
訳はわからないが、その軽さからいって、彼女が実体の殆どない妖精のようなものだと、アントンは冷静に判断した。何しろ彼には音符を吹き飛ばした前科があるのだ。
「何て事かしらね!」
魅惑的なアルトの声。
「くしゃみで吹き飛ばされたなんて初めてだわ」
カラー化された彼女は美しかった。
フォーマルのアップにまとめつつも微妙に乱れた後れ毛が、かえって好感度のブルネットの髪。同じ色の瞳。フレンチ袖が上品な薄紫のスリムなドレス。スラリとしなやかなスタイル。自分が見惚れた写真の女性に違いなかろう。
「しかも靴を落っことしてしまったじゃないの」
彼女は少し恥らいつつも、貴婦人然とした態度を崩さなかった。それは見せかけではなく、生まれ持った気品と見受けられた。
「申し訳ございません、マダム」
アントンは少々気取ったフランス流に呼びかけ、丁寧なお辞儀と共に、机上の写真集に彼女を促した。
「どうぞお引きとりを、元の宮殿に」
「靴もなしでどうやって戻れと?」
「それは失礼致しました。わたくしめが拾って参りましょう」
言いつつも、窓の下から中庭を見下ろして探す勇気はなかった。何しろ相手は得体の知れない幽霊もどき。背後から突き落とされる可能性だってあるのだ。
「しばしお待ちを」
最敬礼して、出口方向に後退り。謎の妖魔に背を向けたくもなかったから。
しかしこの部屋に彼女を1人残していくのも何やら恐ろしかった。家具やピアノにこっそり隠れんぼされてしまうかも。
「あるいはご同行願えますか?」
「素足で歩けとおっしゃいますの?」
これ以上の無理強いは紳士的配慮に欠けると彼も判断、ドアは開けたままにして、猛ダッシュで中庭まで駆け下り、彼女のドレスと同じ色の紫のハイヒールを探し出す。ひとつは中央のヴェーヌスの彫像の足元に、もう片方は白薔薇の咲き誇る花壇に溶け込んでいた。
階段を駆け戻りながら青年は思った。
こうして物体としての靴が現実にある以上、これは幻覚などではない。かつてシャープ記号が窓からふわりと外の世界に飛んでいってしまったように、彼女もまた、屋根裏部屋の窓辺から漂い出して何処かへ姿を消してしまっているかも? 靴がないんだし、宙を舞うように。
むしろ姿を消してて欲しい、という思いと、まだ存在していてくれるかな? といった期待が入り交じる。
部屋に踏み込む直前、切らした息を整えながら、自分は果たしてどちらを望んでいるのか自問自答。
いや、ひと目惚れした麗しの君なんだから。シンデレラじゃあるまいし、靴だけ残して消えるなんて、あんまりだ。絶対に待っててくれてるはず。
そう信じ、一応ノックをした上で、がらんどうの部屋を覗いてみると──
② に続く……
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