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~ 敬愛と追悼の想いから ~ シューベルト 4つの即興曲 Op.90


 霊感即興型の天才と言われていたフランツ・シューベルト(1797~1828)は、自由な即興演奏から形が整えられていった作品が多いとされている。
 しかし五線譜に向かう時点では、音楽は全て己の中で出来上がっていたのか、譜面には一瞬の迷いによるインクの染みが全く見られない。そうした作曲スタイルはモーツァルトに近く、熟考構築型のベートーヴェンとはかけ離れていたようだ。
 作風も作曲の姿勢も異なってはいたが、同じウィーンの街に住んでいたベートーヴェンを「偉大な作曲家」として、シューベルトは大変尊敬していた。

 ベートーヴェンは自らを芸術家と称し、パトロンであった貴族たちと対等に語り合った最初の音楽家であった。身分の高い者との交際も多く、恋愛の対象も、貴族の令嬢との身分違いの恋、あるいは人妻だったりと、想いが叶うことはなかったようだ。そうした辛い恋愛や、難聴を始めとする自身の様々な苦難を乗り越えて、やがては人類愛、壮大な宇宙愛へと精神を浄化させてゆく。
 そんなベートーヴェンは、シューベルトにとって偉大でありすぎる存在であった。

「ベートーヴェンの後で、いったいどんなことができるかな」と、寄宿制神学校の時代から友人らに漏らしていたシューベルト。偉大なる先人に続き、才能ある者に課せられた使命や宿命を自覚していたかのように、短い生涯の中、信じがたい速さで名曲の数々をあふれさせていく。

 当時の音楽家としては珍しい生粋のウィーンっ子で──モーツァルトはザルツブルクから、ベートーヴェンはボンからの移住により、ウィーンを終の住みかとした──、生涯をウィーンで過ごしたこともあり、学生時代からの友も含む素晴らしい仲間に恵まれ、その人生は熱き友情に支えられていた。

「彼はどういったことができる人なの?」
 シューベルトは新たな人物を紹介されると、いつもこのように尋ねていたという。各々が得意分野を生かしてシューベルトの作曲生活を支えてゆくのが、彼らの自然な関係であったから。
 皆が音楽に深い理解を示し、食事を分かち合い、定職を持たず貧しいシューベルトに友人が五線紙を買ってやっていたという美談もある。
 彼らは優れた音楽家や、アマチュアでも相当の腕前の音楽愛好家、詩人、上級公務員、画家といった芸術家や教養のある友人たち。
 そして誰もがシューベルトと彼の音楽を、心から愛していた。
 生涯、自分の家を持つことのなかったシューベルトは、友人の家を転々と居候し続ける。そうした友の家のサロンで親しい仲間が集い、定期的に開かれていた音楽の夕べが、かの「シューベルティアーデ」である。

 明るい性格ながらも始終穏やかで、嫉妬や名誉欲といった虚栄心とはかけ離れていたシューベルト。ピアノ伴奏で舞台に立った際は共演者に栄誉を譲り、自作が披露され、熱狂した聴衆から舞台挨拶を促されても遠慮するなど、常に控え目であった。
 大舞台で主役として脚光を浴びたのは、生涯でたった一度。周囲の支援で自作品のみによる演奏会が、折しもベートーヴェンの没後1年後の命日に行われ、大成功を収めている。

 そして同年、ベートーヴェンの後を追うかのように、病に侵されたシューベルトは31才の短い生涯を終える。亡くなったのは、一番親しかった兄、フェルディナントの家であった。兄は弟の思い出を大切にしておきたかったのか、遺稿などに手をつけることもなく、部屋はそのままの状態で保存される。
 亡くなる前の意識が混沌としていた状態でも、この世にベートーヴェンがいないことを嘆いていた弟の悲痛なうわ言を心にとめていた兄は、ベートーヴェンの墓のすぐそばに弟の亡骸を埋葬すべく尽力した。

 余談ではあるが、シューベルトが亡くなってから10年の時を経て、この墓を詣でたシューマンが、フェルディナントの家に立ち寄り、封印状態であった部屋に手付かずのまま残されていた楽譜類の山から、大変なお宝を見つけ出す。後に《ザ・グレート》の愛称で、《未完成交響曲》と並び、シューベルトの人気作品となりゆく未発表の交響曲である。
 兄を説得して総譜を預かったシューマンに託され、パート譜を自らの手で書き起こしたメンデルスゾーンの指揮、ライプツィヒゲヴァントハウス管弦楽団によって初演にこぎつけるという快挙が成し遂げられた。
 この辺りについては、シューマニアーナ必読の書、
 
『音楽と音楽家』シューマン著(岩波文庫)

 こちらに、シューマン自身の言葉にて(吉田秀和氏の愛情豊かな名訳も秀逸)、生き生きと詳細が記されており、その場にタイムトリップしたかのように、当時の様子に想いを馳せることができる。


4つの即興曲 Op.90 について

 とりわけ歌曲のジャンルにおいて、最も優れた才能を発揮していたシューベルトらしく、歌心や叙情性にあふれた大変美しい作品で、1827年にベートーヴェンが亡くなった年の、夏から秋にかけて作曲されている。
 即興曲というタイトルは、自筆譜の段階では書かれておらず、出版の際に印刷業者の提案により記載された。
 シューベルトはこれが気に入ったようで、もうひとつの Op.142 には《4つの即興曲》と、自らの手で書かれている。

 父がチェロ、2人の兄がヴァイオリン、フランツ(シューベルト)がヴィオラを受け持ち、幼い頃から休日の家庭演奏でモーツァルトやハイドンの室内楽に呼吸のように慣れ親しんで育ったシューベルト。
 とりわけモーツァルトの作品を心から愛していた彼の作風からすると、ベートーヴェンからの影響はさほど見られないようだが、この1曲目だけは、ベートーヴェンの面影が感じられるし、これがベートーヴェンへの追悼の曲であることは計り知れよう。

1 ハ短調 アレグロ-モルト-モデラート
 自由な変奏形式。深刻で激しいフォルテシモの和音に始まり、葬送行進曲風の主題がピアニシモでゆっくりと、語り口を変化させながら静かに進行してゆく。抑えられていた感情は徐々に高まり、激しい苦悩を叩き出しつつも、始終冷静。
 やがて何とも甘美な天上からの唄が、左手の3連符の優しい連打に乗せて語られる。暗闇の中だからこそ、いっそうの輝きが映えるひとすじの光明のごとく。これが調を変えて再び現れる時は、遥かに儚い情景が更に描かれるよう。

2 変ホ長調 アレグロ
 明るく華麗な3連符の速い流れ。中間部は力強い舞曲風。再び最初の明るさが戻り、コーダは舞曲が激しさを増しつつ、勢いよく終結する。メリハリの効いた、大変親しみやすい名曲といえよう。

3 変ト長調 アンダンテ
 たえまなく流れゆく、右手の静かなアルペジオのはざまに浮かび上がる、美しく崇高なメロディーは、シューベルトが愛したウィーンの森や街を流れるドナウの清流のよう。叙情性の際立つ無言歌風。

4 変イ短調 アレグレット
 もの哀しいアルペジオの下降音型と、優しく念を押すような和音の繰り返しが、微妙に形を変えながら展開されてゆく。トリオのアルトの歌声も哀愁を誘う。コーダは華やかな下降音型で鮮やかに終結する。


「本当に、彼の音楽には神の火花が宿っているようだね!」
「これから有名になる人だろうに。もっと早くに知り合いになれたら良かったのに……。残念でならない」

 シューベルトの歌曲の楽譜をいくつか、弟子から見せられた病床のベートーヴェンは、このように語ったという。願わくば、本人に直接、贈り届けたかった言葉である。

 

      小冊子「名曲にまつわる愛の物語」より





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