言語化できること
言語化が苦手です
毎日noteを書いていて、話していても言語化を意識的にする方ですが、言語化は苦手です!
俺は割とすぐ怒ります。だいたいモヤモヤしている時の感情を紐解いて行くと怒るに繋がっています。
で、怒る事自体は良いとして、何に怒っているのかを自分でも分からないことに怒ってることがほとんどです。
時間を舁けてほぐしていくと見つかるんですけどね笑
今日は、怒っていることを書きたいのではなく、言語化して共感してもらえるラインまで持っていける人がすごいなという話です。
人の言語を通して自分を知る
去年の2月ごろから本格的にツイッターを始めたんです。
で、いろんな人の言葉を見てると共感できるなって人が沢山いまして。そんな人達と、緊急事態宣言ってイレギュラーもあってオンラインですごく仲良くなれました。
そのことはすごく自分の中で大事に思ってます。
ただ、どこかすごく危機感もあって。自分に対して共感してもらえることが嬉しいし、共感してもらえたからできたことが沢山あるけど、自分自身は大きくも小さくもなってない感覚がずっとあったんです。
自分が本質的に変わったり成長するときは、人に共感するときじゃなくて自分の主観とかエゴと向き合った時だと思ってます。
例えば、自分が遊園地を作るとして、どんなにオリジナリティをだしても、多分世界に似たようなもんは100万位あると思ってます。
その時、作り上げたものに独自性とか世界観を感じてもらえる理由になるのが、その人の核の部分とか原体験とか、主観的なものだと思ってます。
例えば、小さいころ俺は近所の病院で頭をうって縫いました。目の前が真っ赤に染まって泣きじゃくりましたが、先生の優しい言葉で頭はパックリのままでも泣き止みました。
自分が遊園地に病院風のお化け屋敷を作ったとして。
恐怖演出をするところの照明が赤黒かったり、おばけの先生が人を襲うけど、言葉が丁寧だったりしたら、それはもう自分の体験が反映されてるんで自分が作ったお化け屋敷だと思います。
そして最近会った人の言葉や見た文章を通して、上に書いたような内容を自分は言葉にできるようになりました。
だから自分の言語化能力は決して高くないからこそ人に触れているってことは大事だなと思います。
都合よく自己解釈しないためにも
自分はよく目の前で起きた事象を自分の枠内で捉えて、トラブルとか大きな頭の中で折り合いを付けて処理してしまいます。
だから何かをはじめていつの間にかやめるときもそうだし、諦めるときもそうだったり。都合の良い自己解釈で折り合いを付けてきたことで、後悔してもんどりうってます。
でもまだ遅くないなーと思って毎日何かしらを発信したり、人に会ってます。で人に会って、行動するとそれこそnoteをただ書いているだけより、自分の場合、学びが沢山ありました。
なのでこのnoteでは引き続き、行動した結果とか、自分が体験したことをそのまんま表現して行きたいなと思っております。
久しぶりに公開noteを書いてみました笑
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