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畠山直哉×大竹昭子『出来事と写真』 赤々舎(2016)

対談集である。2015年6月26日に行われた第六章では、故郷陸前高田の震災後を写した写真集『陸前高田2011−2014』を畠山氏が出版した直後に行われた対談が掲載されている。この対談の中で、被災地の写真に対して「美しい」や「きれい」という感想を持つことについてどう捉えるかが議論されている。この議論を読んでいて、新海誠『すずめの戸締まり』のひとつのシーンを思い出した。芹澤という登場人物が震災後のとある場所を訪れた際に「こんなにきれいな場所だったんだな」と述べ、それに対し主人公のすずめが「きれい、ここが?」というシーンである。
畠山氏と大竹氏の詳しい対談の内容に関しては一言ではまとめられない繊細かつ複雑なやりとりなので本書をあたっていただきたいのだが、一点だけ引用する。「現実界のその時その場所のことと、表象物として固定されているもののいまというのは、ちょっと次元が違うことなんですよね」と畠山氏は述べている。震災後のその実際の場所(でのこと)と、写真に写された像(写真というもの)と相対することの違いを指しているのだろう。この言葉を前述した議論に当てはめてみると、現実の前で「きれい」ということと、のちに表象物としての風景を写した写真を見て「きれい」ということは同じ行為ではないということだ。
『すずめの戸締まりの』のシーンでは、作中の中の現実の風景に対して芹澤は「きれい」という感想を持ち、これに対して作中の現実の中で「ここが?」とすずめは述べている。素直に解釈すれば、芹澤の感想自体も眼前の現実に対する直感的とも言える(すずめに対しての配慮のなさもある)素直な感想なのに対して、すずめの言はやや複雑さを秘めていて真意は測りかねるところがある。
そこでのすずめの心の動きを単純化して解釈をここで述べるつもりはない。述べてみたいのは、アニメーション映画で描かれた風景、畠山氏の引用部分に当てはめれば後者の表象物としての背景についてである。新海監督作品はデジタルエフェクトなどを駆使した風景=背景の美的な描写が特徴とされている。この震災後の場所の風景を扱う作品を作るにあたり、従来通りの手法で美的に背景を描くことについての逡巡のようなものが作者の中にあったかはわからないが、実際に出来上がった作品を観た者が、確かに震災後の場所の風景の表象物に対し劇場で「きれい」や「美しい」と感じる場合もあるのではないだろうか? 芹澤の言は作中では現実を前にしたものではあるが、作品を前にして観る者の感想を代理しているとも言えるのではないか?
新海監督は芹澤の言に対してのすずめの言を描くことによって、現実と虚構を作中で合わせて描写しながらも、リアルとフィクションの区別(違い)を自ら対象化して描いているようにも思える。芹澤とすずめのやりとりは議論に満たない段階で終わる。しかし、このシーンを入れたことは当作品、ひいては新海監督の自作の方法への(無意識的にせよ)自問だったのではないだろうか。
対談集のタイトルは『出来事と写真』である。実際の出来事を体験したりそれを前にするのと、写真や映像作品を観ることの違いはなんだろうか。『すずめの戸締まり』は、震災という出来事、それを内容として扱うことについて賛否をよんだ。個人差はあるだろうけれど、実際に出来事を体験した人間と、間接的程度にしか体験してはいない者では作品に対する感想も大きく違ってくるだろう。芹澤のように作品の中で描写された風景を「きれい」と感じる者もいるだろうし、そのことを非倫理的・非道徳的だと批判する場合もあるだろう。様々な立場や解釈がある中で答えはひとつではないが、本書での畠山氏と大竹氏の対談の中での議論や、芹澤とすずめの言葉は、災害後の風景の表象という問いに対する考えを促す契機に私にはなった。

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