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「国葬の日」を観ました。

ポレポレ東中野で「国葬の日」を観た。

大島新監督の舞台挨拶もあり、サインももらった☺

前作「香川一区」は立憲民主党の小川淳也氏を追った劇的な作品で、これが政治というなら私でも参加できる!と身が震えたのだが、

「国葬の日」は、ドラマチックではない。
つまらない、と言っていいかもしれない。そのかわり、大きなモヤモヤがやってくる。


故・安倍首相の国葬の日。

東京、沖縄、福島、静岡、札幌・・・と日本各地で同時に、どう思うか?と、インタビューした様子が映しだされた。

当時、賛成4割、反対6割と、国が二分化されたかのように報道されたけど、大半の人は、情緒的な反応だけで、実際はどうでもよかったのだ。

かくいう私も、国葬を知って、ありえない!と即座に思ったが、結局は受け入れている。

インタビューされた人たちは、情があり、人の立場を慮れる、いい人たちだ。ただ、受け入れることに慣れている。

だから、反対6割でも国葬ができてしまう。

国がそういう国民性を確信的に突いているのなら、

はっきりいって、

舐められとる!!

と、あとになってジワジワきた。


日本に民主主義が根づくなんて、あるんだろうか?

決定を他人(上)に委ねるのに慣れきって、中身には無頓着で、良いとか悪いとかじゃなく、向いてない。

でも、思えば、

民主主義の形だけつくって、そういう教育をぜんぜんしていない。

国がそれを確信犯でやっているとさえ思う。

私がときに対応に苦しむカスタマーハラスメントのおじさんの精神構造も、その産物だ。あらゆる人間が対等だという、あたりまえの感覚が麻痺している。


帰りの電車のなかで、ひとつの思いが募る。

私は、自分が生きていることと、政治とがつながっていないことが、嫌だ。

その思いは「香川1区」を観たときからある。そういう「水路」がほしい。そういう場(政治カフェとか)にも出向きたい。

私は嫉妬深いから、電車の中で、身軽な人が、そういう場にホイホイ行ったりしてるのが許せない気持ちにすらなった。(実際にはその人だって、ホイホイと行けているのではないだろう)

切望と黒い感情が入り混じる。 

つまり、そういうことだ。
そこにしがみついて、手放したくない。

人とつながること、自然とつながることと同じく、政治とつながることを実感できずにいるのが嫌なのだ。

それを実感できる場がほしい。

その晩、たまたま、NHKで小説家あさのあつこの「最後の講義」をみた。

そして気づいた。

それを手放さないために、まず自分の言葉で表現するしかない。

そして今朝、連れあいのNちゃんに、「国葬の日」の話をポロっとしてしまった。会社帰りに映画を観たのがバレたくなかったのだけど💦


(私)
日本人って、集団化しやすいよね・・

(Nちゃん)
戦争中にあれだけアメリカに抵抗したのに、敗戦してアメリカが日本に来た時、旗降って歓迎したんだから、アメリカ人も驚くよ。(あの頃と本質は何も変わってない)

(私)
受け入れるのがものすごく得意だよね。だから統治しやすいし、戦争にも走りやすいし。ところでインボイス始まったんだっけ?

(Nちゃん)
始まったんだよ!◯◯さん(うちに野菜を届けてくれている農家さん)みたいな人困るんじゃない?大工さんとかも。

(私)
あんなの、国、ていうか、財務省のためだよね・・

話せる、ということの救い。

ああ、これ以上の「水路」があろうはずがない。・゚・(ノ∀`)・゚・。

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