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キリシタン大名・有馬晴信と山梨県栖雲寺の十字架を持つ聖像

 山梨県の栖雲寺に、有馬晴信ゆかりのものであったという伝承のある 十字架を持つ聖像(伝「虚空蔵菩薩」像)が伝わっており、この絵は現在、山梨県立博物館に寄託されているという。先日、山梨に行く際、せっかく山梨に行くのなら、この絵も見てみたいと思って博物館に問い合わせたところ、現在は展示されていないとのことだった。それで、結局、博物館には行かず、この絵もみることができなかったのだが、とりあえず、今回はこの絵について少し書いてみたい。この絵の全体像は、こちらのページでみることができる。↓

 ところで、なぜ、有馬晴信ゆかりのものが山梨にあり得るのかといえば、晴信は、岡本大八事件によって、晩年、山梨に流され、そこで亡くなっているからである。

 さて、くだんの聖像は、晴信ゆかりのものという伝承と、絵に描かれた十字架によって、ネストリウス派のものかもしれないとも思われたこともあったが、現在は、複数の研究者によって、マニ教のイエス像であると断定されている。この絵をマニ教のものであると断定した専門家の一人である森安孝夫氏は、これが「元代すなわちモンゴル時代に、江南と九州の間、特に浙江省の寧波と九州の博多との間を結んだ貿易船によって、おそらく珍奇な仏画として九州にもたらされ、後にそこに十字架が描かれていたことからキリシタン大名に献上されたのであろう」(『シルクロード世界史』より)と推測されている。

 では、もし、この絵を本当に有馬晴信が所有していたことがあったとして、有馬晴信は、この絵をどういうものだと思っていたのだろう。晴信が生きた時代、イエズス会は、インドに残るネストリウス派を異端とし、ネストリウス派がローマ教会に帰属するよう活動していた。そして、中国の景教碑はまだ発見されていなかった。景教碑が発見されるのは、晴信の死後、10年以上後のことで、しかも、発見当初、イエズス会は景教碑をネストリウス派ではなく、ネストリウス派より古い聖トマスによるキリスト教と関連があるかもしれないなどと考えようとしていたようだ。これらのことから考えると、晴信は、①イエズス会経由で、ネストリウス派という存在を聞いていた可能性はなくはないが、聞いていたとしてもネガティブなイメージで聞いていたはずで②景教碑の存在は全く知らず、景教=ネストリウス派ということは知る由もなかったということが推測できる。となると、晴信は、この絵を、景教のものと認識していた可能性はないだろう。上述のように、ネストリウス派の存在は知っていた可能性はなくはないから、ネストリウス派のものかもしれないと思っていた可能性はある。しかし、イエズス会が否定するネストリウス派のものというより、何だかわからないけど、とりあえず中国に古くから伝来していたキリスト教の絵と思っていた可能性もあるだろう。この絵をみて、中国にも古くからキリスト教が伝来していたのだなぁなどと思っていたかもしれない。

 ところで、日本人がマニ教という存在をはじめて認識するようになったのは、いつの時代のことなのだろう。晴信は、マニ教という存在を知っていたのだろうか。

(標題は、山梨の栖雲寺と、有馬晴信謫居跡の位置関係、Googleマップより)

(参考資料
①「マニ教絵画の日本伝来」『シルクロード世界史』森安孝夫著、講談社選書メチエ、2020年
②清水紘一「有馬晴信」『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』五野井隆監修、宮帯出版社、2019年
③『大航海時代叢書 第1期9 ジョアン・ロドリーゲス 日本教会史 上』岩波書店、1967年
④『大航海時代叢書 第1期10 ジョアン・ロドリーゲス 日本教会史 下』岩波書店、1970年)


☆有馬晴信が関係した岡本大八事件の頃の話。↓


☆中国で景教碑が発見されたときに関する記事はこちら↓

☆インドにおけるネストリウス派やローマ教会の動きについての記事はこちら↓


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