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宮本武蔵、佐々木小次郎、キリシタン?

 ここ最近、ばたばたしていて、記事を書くのはおろか、noteもなかなか開くことができないでいたのだが、ひさしぶりにnoteを開いて、いろんな方々の記事を興味深く拝読しているうちに、それらの記事と、最近に気になっていたことが、リンクしていくような不思議な感覚になったので、探求の仕方が甘いのは承知の上で、今回はその辺りのことをシェアしていきたい。

 事の発端は、久しぶりに帰省した実家で、父が「佐々木小次郎はキリシタンだったらしい」と言ったことからはじまる。曰く「巌流島の戦いは、キリシタンの佐々木小次郎を消すためだったらしい」。本当!?ちなみに、父はこってり理系人間で、本質的に歴史にあまり興味がないタイプ。私は、歴史は好きだが、剣術方面のことは全く知らない。それで、信じられない思いを持ちつつも、一応、Googleで「佐々木小次郎 キリシタン」と検索してみたところ、なんと山口県阿武町役場のHPにヒットした。そのHPによれば、阿武町大字福田下に佐々木小次郎の墓があるという。阿武町といえば、最近、給付金のことで、一躍有名になった町である。あのニュースがなければ、おそらく阿武町ときいても、どこか遠いところのこととしか思えなかったに違いない。あのニュースのおかげで?阿武町も何となく身近に感じられる。佐々木小次郎に話を戻すと、小次郎の妻ユキはキリシタンで、懐妊中のユキは、小次郎の遺髪をもって、キリシタン禁令の折、他の信者たちとこの地に身を寄せたという。小次郎の墓の近くには佐々木姓の墓が多くあり、小次郎の墓の上段には、ユキが信仰したバテレン墓と思われるものがあるとの由。また佐々木小次郎の墓は、我が子に対する因果応報の絆を断ち切るため、小次郎を「古志らう」と変えて記されているとのこと。この記事を読むと、佐々木小次郎の妻がキリシタンだったのかとは思っても、小次郎がキリシタンだったのかは、わからない。

 Googleでの検索結果を続けて見てみると、歴史ハックというサイトの記事が出てきて、そこでは、歴史研究家の杉山光男という方の説を引いて、巌流島の決闘は、キリシタンである佐々木小次郎を抹殺するために細川小倉藩が仕組んだ計画だった?という記事が書かれていた。ちなみに杉山光男という方を調べてみたら、東大の西洋史学科を出て、劇画原作や歴史研究をされている方のようだ。この杉山氏によれば、巌流島の決闘は、1612年の4月13日で、キリスト教の禁教令が出るのが同年の4(3ではないか??)月21日だという。細川小倉藩では、藩士に剣術を教える佐々木小次郎がキリシタンだというのは困ったことであり、小次郎の存在を抹殺したかったのではないかと推察されている。詳細は、こちらをご覧ください。↓

https://rekishi-hack.com/ganryujima/2/

上の記事では、小次郎の墓で、小次郎の名が「古志らう」となっているのは、小次郎がキリシタンだったからと書かれている。「古」という文字を使ったのは、「十字」を刻むのが目的で、キリスト教徒の墓である証を刻んだのだという。こういう話は、こじつけではないかと思わないでもないが、キリシタンの多かった九州やその近くだとそういうこともあるかもしれないとも思うし、「古志らう」にまつわる阿武町に伝わるわかったようなわからないような伝説はそういうことだったのかとうなずける気もする。

 さて、ここで上の記事の補足として、巌流島の戦いの少し前に、岡本大八事件があったことをあげたい。岡本大八事件とは、長崎奉行の長谷川藤広の元家臣で、本多正純の家臣であったキリシタンの岡本大八が、同じくキリシタンであった有馬晴信をだまして、賄賂を受け取っていた事件のことであるが、この事件の背景には、スペインやオランダとの交易が活発化し始め、ポルトガルの地位が相対化されてきたことや、長谷川藤広と有馬晴信との不和といった複雑に絡みあった問題が色々あって、完全には理解しにくいのだが↓

とりあえず、この事件をきっかけに、これまで、なんとか生き延びていたキリスト教が、禁教令によって、いよいよ本当に潰されていくことになったのは間違いない。この事件の2年後には、高山右近らが国外に追放され、さらにその8年後の1622年には元和の大殉教でスピノラら総勢55名が殉教した。

 さて、巌流島に戻ろう。巌流島の決闘があったのは、岡本大八事件で大八や有馬晴信が断罪されて1か月もしない頃のことであった。そして、このときに佐々木小次郎が剣術を教えていた小倉藩の藩主は、細川忠興であった。忠興の妻は有名なガラシャだから、小倉藩にキリシタンがいてもおかしくないと同時に、もし領内にキリシタンという存在がいたとしたら、それが藩にとって、この時期、厄介な問題になったというのはあり得る話である。ただし、これは佐々木小次郎がキリシタンだったという証拠にはならない。

 次に、細川忠興と、宮本武蔵のその後を追ってみたい。細川忠興は、1620年に病気のため、忠利(ガラシャの息子、キリスト教の洗礼を受けたという説もあるらしい)に家督をゆずり、1632年、忠利が豊前小倉40万石から肥後熊本54万石の領主に加増されると、自らは八代城に入ったという。宮本武蔵の方はというと、大阪の陣では徳川方として、島原の乱では小倉藩主の小笠原氏に従って出陣し、1640年には、熊本藩主の細川忠利の客分として招かれたというが、このころはまだ忠興が存命中であった。武蔵を熊本藩へ口利きしたのは、松井興長だと思われるらしいが、この興長は、忠興亡き後、八代城を預かることになり、その妻は忠興の娘・古保だという。(こちらはガラシャではなく側室の子どもだろうか?)

 こうして見てきても、佐々木小次郎がキリシタンであったかどうかは結局はっきりはわからず、それゆえ巌流島の決闘が、キリシタンである佐々木小次郎の存在を抹殺するためのものであったのかどうかも結局、よくわからなかったのだけれでも、武蔵が細川忠興とその周辺の人々と関係が浅くなかったのは間違いないなさそうだ。そして細川氏は、キリスト教と関係が浅くない家系であり、それゆえ、岡本大八事件が起こったばかりの巌流島の決闘の頃には、もし領内にキリシタンがいたとしたら、難しい立場になり得たであろうことだけは想像できた。


(標題は、巌流島の決闘を描いた歌川芳房による浮世絵。Wikipediaの「佐々木小次郎」より引用。)

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