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前田利家と高山右近と小田原征伐と雑司ヶ谷・法明寺

 キリシタンにあまり興味がなくても、キリシタン大名と聞けば、高山右近の名前を思い出す方は少なくないのではないか。キリシタン大名も色々だが、高山右近は、最後までキリスト教信仰を真っすぐに全うした数少ない人物である。そんな高山右近は、63年の人生のうち、後半の約26年間を加賀前田家の元で過ごした。1587年の秀吉による伴天連追放令のあとも棄教しなかった右近は、小西行長によって小豆島に匿われたが、行長の移封に伴って右近も肥後に移った。肥後に右近がいることを知った秀吉が、右近を大坂に呼び出すと、右近は、このままでは行長らに迷惑がかかると大坂に参上し、結局、1588年、加賀前田家の預かりとなった。預りの身ながら、右近は、1590年、秀吉による小田原征伐のとき、利家軍として従軍した

 ところで、前回、東京池袋と目白の間にある雑司ヶ谷鬼子母神堂周辺について触れ、この辺りが加賀前田家と関係があるらしいと書いた。↓

なぜ前田家と?と疑問に思ったのだが、寛政年間(1789~1801年)に雑司ヶ谷
の住人・金子直徳によって編纂されたという「若葉の梢」を底本に、その内容を整備・訂正し、口語訳した海老澤了之介の『新編 若葉の梢』によれば、小田原征伐で八王子城、世田谷城を攻め落とした利家が、雑司ヶ谷の法明寺に引き上げて、軍を休めたそうだ。その縁から天正19年(1591年)頃、利家による(法明寺内)東陽坊の建立がなったのではないかと推測されている。(東陽坊のちの大行院は雑司ヶ谷鬼子母神堂の管理をした。)この話が本当なら、利家軍として従軍した高山右近も、雑司ヶ谷の地で休憩したことがあっただろうか。


(標題の写真は、雑司ヶ谷・法明寺)

(参考資料
①『雑司ヶ谷鬼子母神堂 雑司ヶ谷鬼子母神堂開堂三百五十周年・重要文化財指定記念』法明寺著、勉誠出版、2016年
②『新編 若葉の梢』海老澤了之介著、新編若葉の梢刊行会、1958年
③『高山右近』海老沢有道著、日本歴史学会編集、H.元年
④『加賀百万石異聞 高山右近』北國新聞社、2003年
⑤木越隆三著「加賀前田家と高山右近」『高山右近 キリシタン大名への新視点』中西裕樹著、宮帯出版社、2014年)


 



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