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献血は心を問わない。

私が献血を許可されるくらいには健康だった頃、献血ルームに通うのが一つの楽しみだった。医学に興味津々の私にとって、成分献血は眺めて楽しく、時間も長いのでよい休憩時間になった。でも、私が献血に足しげく通った理由はそれだけではない。

献血は無償のボランティアだけど、心を問わない。それが私にはこの上なく救いだった。

2014年に大学進学した私を待っていたもののなかに、「就活を意識してボランティアをしておきましょうね」という言説がある。ここで言うボランティアとは、無償のものを指す。

無報酬のボランティアを勧められることも、それが「就活のため」であることも納得できなかったが、例に挙げられた活動のほぼすべてが「コミュ力」を問われるものであることが、就活のためのボランティアに抱く感情を尖らせた。

小学生に勉強を教えるにも、自然のなかで子ども達と活動するにも、「コミュ力」と専門性と溢れるスタミナが必要だ。それを、無報酬で、スタミナもない障害者で、人と関わることで極度に疲弊しそこに気持ちもなく、子どもと関わる専門性を微塵も持たないしこれからも持つつもりはない私が、やる? 嫌だ。やりたくない。

今考えても、「就活のためのボランティア」はあまりに搾取に過ぎるし、専門性を舐めた内容が多かった。それだけではなく、「コミュ力」やスタミナのほかに、この種のボランティアは、参加にあたって、立派な動機を要求してくるのだ。

無報酬なのにどれだけ要求するんだと当時から呆れ果てているけど、倫理に悖る不純な動機を持つ人や、雑な活動をする人に来られては困る内容なのも、一定の理解はする。それならそれなりの報酬を用意するのが筋だと思う。

無報酬のボランティアで専門性のなさゆえに失敗して責任を問われるかもしれない。そんな風に思ったら、そこへはもう近づけなかった。

その点、私が高校生のときからハマっていた献血は同じく無償のボランティアだが、心を問うてくることはない。

ただ質問に正確に答えて、血液を提供するだけでいい。求められることは非常に少なく、それでいて失敗するリスクは私にはなく、献血ルームのスタッフの皆さんには大切に扱われ、お菓子や漫画を楽しめる。最後にはちょっとしたおみやげも持たせてくれる。

「就活のためのボランティア」に適合できないし断固として否を突きつけ続けた大学生の私には、献血は救いだった。どんな理由で関わってもいい。ただ質問に正確に答え、必要なだけの血液を淡々と提供すればいい。

理由を問われないとは、内心に干渉されないことだ。献血は内心に不干渉で、私のありようも侵さない。

その上、献血は優しく、安全なボランティアだ。

私の提供した血液は誰かの命を繋いだだろうけれど、献血ルームや献血の構造はたしかに私の心を癒すものだった。

今は服薬の関係で献血できないけれど、献血は好きで応援している取り組みだ。

私の心を問わずにいてくれてありがとう。

執筆のための資料代にさせていただきます。