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見えないんですより、発達障害なんですの方が言いづらい。

見えないんです、と言うことには嫌というほど慣れてきた。小さな頃から眼鏡をかけていて、おまけにある時期から自分より見える子どもに囲まれる生活をして、私は本当は相手の視力を奪えたらいいのにと恨みにも近い感情を抱きながら、口にするのだ。見えません、と。

見えませんと言うのは言わされているとずっと思ってきた。ただ同じ条件でやったら人よりできないに決まっている。見えないから。その理由を言わなければ、私は怠け者かおそろしくできない子の烙印を押されてしまう。それは嫌だったから、そんなの誰だって嫌に決まっているから、見えないんです、と言う。大抵の場合、それは理解された。

一方で、発達障害の一つ、ASDについては去年の5月になって、診断が下り、ようやくその自覚をした。それでもまだ発達障害についての偏見が自分の中にあるのと、発達障害で何ができないかがわからなくて、自分の状態を伝えることができない。精神障害保健福祉手帳を取得したけど、この手帳は別に私がどの程度できないかを伝えてくれるものではない。同じ等級でも、得意なことも不得意なことも全然違う。同じASDでも全然違うし、発達障害と一括りにされることの多いADHDとも全然違う。

発達障害の私の苦手は、グラデーションだと思う。視覚障害の私の苦手はもっとはっきりきっぱりしている。見えないものは、見えない。でも、発達障害のそれは、やろうと思えばできるけどその後の予定に支障をきたすほど疲れるとかそんなわかりにくい形をしていることがある。勿論、はっきりきっぱりできない類いのこともある。

だから、非常に言いづらいのだ。だけど、言わなければ自分が困るし、障害をオープンにしている意味がない。下に見られたり馬鹿にされたりするリスクを負っているんだもの、必要なものはちゃんと必要って言わなくては。

そうは言うものの、何をして欲しいのかも言語化できていないから、頑張ってしていきたい。

執筆のための資料代にさせていただきます。