私、一人で死ぬために生きてきたみたい。

「死にたい」は案外近くにある。ちょっと足を伸ばして行くデパートや大型書店ではなく、徒歩五分以内のコンビニくらいの気軽さで、近い。

そう、「死にたい」は遠くの手の届かない宝石じゃないのだ。コンビニで三百円出せば買えちゃうスイーツだ。買っちゃう? 今日、買っちゃう? って財布の中身と相談。そんな感じ。

そんなインスタントに、コンビニエンスに、死にたがるな! ってどこからかお怒りの声が飛んできそうだ。うるさいと一蹴して、私はコンビニスイーツを手に取る。

インスタントに、コンビニエンスに、死にたくなっていい。卵がうまく割れないとか、大好きな漫画の新刊を買い損ねたとか、大事な人が亡くなったとか、死にたくなる理由は日常のあちこちに散らばっている。

死にたくなることは治療されるべき問題なのだろうけど、「死にたい」は否定されるべきものではない。死にたいと思っている状態には治療が必要だけれど、それは繰り返し言うけど、「死にたい」気持ちは否定しなくていい。

このことに気づいてから、ずいぶん楽になった。死にたいと思っていいんだ。そう思うだけで、心が軽くなった。

死にたいと思う度に「何で?」と自分に問いかけてみた。

能力が高くないから死にたい。

正解を選べなかったので死にたい。

目が悪くて不便だから死にたい。

疲れやすくて不便だから死にたい。

お金がないから死にたい。

生きることに疲れたから死にたい。

たくさん出てくる死にたい理由。それらを止めるものは物語だった。

好きな作品の続きが読みたいから死ねない。

理由はそれだけである。死を思いとどまるほどの理由には、他の誰も、何も、なりえない。「死にたい」と言われたら明日の約束をする、なんて聞いたことがあるけど、それより一ヶ月後の新刊の発売が私には効く。

昔から自立したいと考えて、勉強を頑張ってきたけれど、自立した後何がしたかったんだろうか。それを考えていると、やがて一つの答えに行き着いた。

一人で死にたかったんだ。

家族という煩わしいしがらみもなく、誰にも邪魔されず、一人で死にたかった。そのために勉強を頑張って、大学に入って、一人で死ぬための準備をしていたみたいだ。

一人で死にたい。

そればかり考えて生きてきた。思い描く未来の自分は、仕事がうまくいっていてお金もあって、家族と縁を切る、強い人だった。

そうではない自分に絶望している。お金で何でも解決できない今にがっかりしている。理想は今でも追い求めている。

でも、そろそろ一人で死ぬために生きるのはやめないといけない。一人で死ぬ以上の望みを見つける必要がある。

誰か好きな人がいればその人が生きる理由にはなったかもしれないが、私にそれはない。何せ、誰が死んでも揺るがない人になりたかったと過去のnoteに書いているくらいだ。

これからどんな望みを見つけるかはまだわからない。けれど、一つだけたしかなことがある。

私は、私のために生きる。

執筆のための資料代にさせていただきます。