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令和源氏物語 宇治の恋華 第九十七話

 第九十七話  迷想(七)
 
季節は花が咲く頃になろうとしております。
薫が三条邸に移りしばらく経ちますが、二条院の中君を未だ訪れてはおりませんでした。
それは己の心に生じた惑う想いゆえか、複雑な気持ちを持って中君に接すればたちどころに匂宮は薫の気持ちを看破することでしょう。
しかしながら中君に会って大君を偲びたいという思いとただ中君にお会いしたいという気持ちはもはや同じものとなっております。
春に浮かれているとばかりに鷹揚に片付けられるに違いあるまい、と二条院へ出向くこととしました。
このところ匂宮はすっかり二条院に腰を据えて夫婦睦まじいという噂です。
生活の基盤を得て落ち着いた宮の様子を母君である明石の中宮も満足そうに眺めているのだとか。
仲の良い夫婦が本来あるべき姿となり、めでたいことこの上ないことですが、薫にしてみればいささか複雑ではあります。
もしや中君と夫婦になっていたのは自分かもしれぬ、と思い返すだけで何故姫を人へやってしまったのか、などと後悔も込み上げてくるのです。
 
 しなてるや鳰(にほ)の水海に漕ぐ舟の
      まほならねども逢ひ見しものを
(契りを交わしたわけではないけれど、一度は中君と共寝をした仲である。なんとも惜しいことをしたものだ)
 
詮方なき独り言を聞く者もなしとて、やるせなく項垂れる君なのでした。

内裏で会うのとは違い、匂宮は笑みを含ませながら実に朗らかに薫を出迎えました。その余裕のある様子が薫には羨ましくてなりません。
「よい頃合いであるなぁ、薫よ。今年もおばあ様の桜が見事に咲いたぞ」
子供の頃と変わらぬ無邪気さで亡き紫の上の桜を愛でる匂宮ではありますが、落ち着いて風格が添うたように感じる薫です。
なるほどしっかりとした家庭を持つことが世に重んじられるというのは、男性が責任感を持ち、このように頼もしくなることからであろうか、と自然に思われました。
「そうさなぁ。この二条院が最も美しいのはやはり春の上(紫の上)と呼ばれた御方が住まわれていたこの時期であるな」
そう薫も穏やかに笑みを返しました。
枝垂れた薄紅の桜は昔よりもずっと大きくなり、今も変わらずに艶やかな花を咲かせております。
やはり圧巻であるのはざぁっと抜ける風に靡きながら散る桜びらの儚さでありましょうか。薄紅に霞む視界の向こうには別の世界があるようにも思われて、せつなくなるほどに美しい。
「君が幸せそうで嬉しいよ」
薫は宮の満ち足りた様子にやはり妬ましさよりも言祝ぐ気持ちの方が強いのです。
愛する姫を失った悲しみがいまだ癒えるはずもなかろう、と薫を見つめる宮の目にはそれを察する色が滲んでおります。
「さて、君は参内するのであろう。支度をしたまえよ。私は西の対の中君にご挨拶申し上げよう」
薫はそうして久方ぶりに中君を訪れることにしました。
二条院はかつて栄華を誇った源氏の終の棲家です。
春の上を偲んでこの時期がもっとも輝くように庭も作られ、薫が知る貴族の邸の中でも豪奢で贅沢なものでした。
西の対へ着くと顔なじみの女房たちが立派な衣装に身を包んで迎えるのを、様変わりしたものだ、と感じるのは致し方なきこと。
「薫さま、お久しゅうございます」
洗練された物言いも板につき、垢抜けて京の空気に馴染んだようです。
中君との対面は御簾越しでありましたが、その下から覗く装束はやはり高貴な親王の夫人らしく上質なものです。その色目の華やかさからも中君にはよく似合っているに違いありません。
この人はすでに手の届かない人となってしまったよ、と寂しく思われますが、これでよいのだ、と安堵する気持ちもあるのです。
取次を介して言葉を交わすのも高貴な宮の正夫人には相応しく、何より元気そうで幸せそうなのが薫にとっては一番のことでしょう。
「なんだ、薫をそんな簀子の上に座らせるなんてよそよそしすぎるではないか」
すっかり支度を整えた宮は濃い直衣の色目もつややかに艶めかしい風情で西の対に現われました。
「おや、私が御簾の裡にでも招かれたらば君は嫉妬で大変なことになろうものを」
「私はそんなに度量の狭い男ではないぞ」
きっぱりと言い放つ宮ですが、
「まぁ、節度のある付き合いに越したことは無い」
と、前言をころりと翻す様は愛嬌があってこの人らしい。
顔を見合わせた宮と薫は声をたてて笑い合い、御簾の向こうの中君もほんのりと笑みをこぼしたのでした。



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