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令和源氏物語 宇治の恋華 第百八十話

 第百八十話 水鏡(四)
 
それはあの時の感覚と似ておりました。
いつぞや身から魂だけが抜け出たあの宵のこと。

なるほど人は思い悩むあまりにその苦痛から逃れようと魂だけが離れてどこかへ行くこともあるという。
今を最期と考える浮舟には同じように魂だけが幽冥を彷徨っているのかと夢とも現とも境がつかないのです。
するとぼんやりとした影が凝り固まって女人の姿を現しました。
その見目形は浮舟自身。
これは己の心を映す鏡であるかとしげしげと見つめましたが、どうにも様子が違うように思われます。
その人の顔かたちは確かに自分と瓜二つではありましたが、ほんの少し大人びていて、理知的で、気品のある風情が艶めかしい。

まさか・・・お姉さまでは?

浮舟はその女人がついぞ会うことも叶わなかった大君であると直感しました。
大君は否定も肯定も、それどころか声も聞かせてはくれませんでしたが、心は通じているようで、瞳には憐れむような深い色を湛えているのです。
 
ああ、本当によく似ておられる。
この方がわたくしの姉であり、薫さまが心から愛された御方。
 
懐かしさよりも先に悲しみが込み上げてくるのは薫君を想うゆえか。
薫君とはついぞ結ばれなかったというこの女人が果たして君を愛していたのかどうか。
ここに現れたのは薫君を裏切った自分を糾弾するためであろうか。
 
浮舟は己の惨めさに大君と目を合わせることができまい。
すると大君は浮舟の手を取り、労わるようにその手を撫でました。
ひんやりと温もりを感じないのはすでにこの世にない方だからでしょうか。
それでも不思議と恐ろしいという気持ちは微塵もなく、ただ慰めてくれているのだとじんわりと伝わってくるのです。

「わたくし、愚かでしたわ」

悔恨の涙が頬を伝い、薫君に詫びる妹を大君は優しく抱きしめました。
血を分けた姉妹であるからでしょうか、共に同じ男性を愛した女同士としてのシンパシーでしょうか、浮舟の中にまるで魂の欠片が流れ込むようにめまぐるしい記憶が脳裏を過ぎりました。

朧月夜に浮かび上がる橋姫たちが奏でる琵琶と琴。
若々しい薫君の情熱的な眼差しは浮舟の知らぬものでありました。
その眼差しの強さにせつなさが込み上げて、胸がつかまれたように息苦しい。
一際印象的なその眼差し。
涙を流して見つめるその目にはまことの愛と喪うことへの惧れが浮かんでおります。それが大君の見た最後の薫君であるのでしょう。

大君も薫君を心から愛していたというのが痛いほどに伝わってきて、やはりその想いの裡には自分など入り込む余地も無い。
君への背信を詰られるように思われて、やはり行き場のない浮舟はまた淵へと追い詰められる。
「どうかわたくしを見ないでくださいまし。姉上様に会わせる顔もありません」
 浮舟は顔を背けて、じりじりと後じさる。
薫君にも匂宮にも真剣に愛されていなかったという惨めさは絶望となって浮舟を苛むのです。

ああ、このまま闇に消えてしまいたい。
 
闇に染まろうとする浮舟を留めようと大君は手を伸ばす。

死者の声は生者には届かないのです。
大君には浮舟に気持ちを伝える術はありません。
妹を救いたくてここに現れたのですが、絶望のあまりに生きようという気力が削がれてしまっているのです。
大君は浮舟が悔い改めて薫君と幸せになってほしいと願っておりました。生きている者は、生きて幸せになることに目を向けるべきなのです。

 浮舟は罪の苦しみから逃れたくて、さらに闇へと近づいてゆく・・・。
大君が手を差し伸べて、あと少しというその刹那、浮舟は闇へと消えました。

指先に広がる波紋は水面の如し。
浮舟は滑り込むようにあちらの世界へと居んで消えました。

 
水に抱かれて緑に染まる黒髪が浮舟の視界を塞ぐ。
冷たい水底には、ただ静謐があるばかり。。。

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