令和源氏物語 宇治の恋華 第百十話
第百十話 迷想(二十)
さわさわと渡る風はすっかりと秋らしく、庭の叢からは虫の声が聞こえます。
端近で霞んだ月を眺めながら薫はせつなく溜息をつきました。
まったく私は惟成の言う通りのお人よしであるよ。
とうとう中君を我が物とすることもできなんだ。
今頃は匂宮の誤解も解けて夫婦睦まじくしていることであろう。
中君が男児を出産すれば堅固な地位を築けることは間違いなく、後見人としてはこれ以上のことありません。
明日にも懐妊の祝いとして新しい装束などをお贈りしようと考える反面、またもや行き場を失った想いを持て余して一人傷つく君なのです。
二条院では薫が想像した通りに夫婦は心を解して語らっております。
「明日にでも参内してこのことをお主上に申しあげよう。母上もきっと喜んでくださるに違いない」
素直に喜ぶ匂宮の明るい表情を見て中君はほっと胸を撫で下ろしました。
「ええ、でもまだ内々に。左大臣様にはお知らせにならない方がよろしいかと。六の姫君は結婚したてですもの、お気の毒ですわ」
控えめにあちらを思い遣るのもいじらしく、優しいおおらかな気性を益々好もしく感じられる宮なのです。
「あなたはそんなことを心配せずに身を健やかに保っておくれ。そうか、それで食事が採れなかったんだね。ああ、愛しい人。あなたの苦しみを私が代わってあげられればよいのに」
「わたくしは大丈夫ですわ。悪阻もだいぶおさまってまいりました」
「うむ、では滋養のある物をいろいろと取り寄せるとしよう」
頬を赤らめて恥ずかしそうに俯く姿は愛らしく、このような様子なればあの堅物の薫とて惹かれずにはいられまい。
これは気を抜けぬ、と宮は二条院を留守にするのも考えものだと翌朝になってもこちらで中君とゆったり過ごすこととしました。
しばらくぶりの二条院での朝は匂宮にとって新鮮なものでした。
女房たちは糊のしなれたよれよれとした着物を纏い、屈託なくよく笑う。
六条院ではどこもかしこも隙なく磨きたてられ、女房たちでさえ美しく着飾ってまるで作り物の空間のようでした。もちろん調度品は極上の逸品、疵をつけるのも憚れるほどに気を抜けない空間で寛げることなどありましょうか。
豪奢で虚飾。
贅沢な衣装を纏った六の姫がそうあるのは今の宮には当たり前のように思われます。
竜宮から生還した身には魔法が解けたように目から鱗が落ちて、この二条院にて人の営みの根本たるを再確認された宮なのです。
我が子がここで育まれている。この妻の側でいることこそ人としての自然な感情を取り戻せるように感じられます。
乙姫の傍らはひとときの夢なれば、享楽にしか目がいかず、まこと人らしく、親らしくあろうと思えば中君の側でこそ生きる喜びが見出せるように思われるのです。
そうと考えられるとなかなか六条院に渡ることのできない夫の不器用さを不憫に思いながら、それとなく日が開かぬように六条院へと送り出す中君はすでに立派な北の方の風格を備えているのでした。
もしもわたくしが薫さまと結ばれていたならば。
それは今もっても中君の胸の裡に木霊する甘い夢であります。
母となり、子を守らねばならぬ身となった中君にはこの二条院で強く根を張って生きてゆかなければなりません。
優しい薫君にこれ以上甘えてはならぬ、という気概が君を近くには寄らせぬこととなり、薫君は心の虚ろを埋めるにもやるせなく痛みを抱える日々を送るのでした。
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