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変人として生きる気楽さ

人とおなじじゃないわたしは、普通には生きられなかった。普通には生きられないわたしは、さらに人とは違う自分になった。そういう人は、下手に馴染もうとするより、自分は変人だ、と腹を括ってしまえば自由に楽に生きられたりする。そんなわたしの、昔のはなし。

お茶と先生と言葉あそび

私は変人であり、真面目でもあった。物心ついたころから。

一番古い真面目エピソードは、幼稚園の年長さんの頃。

お昼ごはんの時間は、自分のコップに先生がやかんからお茶をついでくれていた。その時に「『お茶ください』と言いなさい」と先生に言われていた。

私は毎回「お茶ください」と言っていた。だが、周りの子は、「お茶!」とか「ちょーだい!」とか言って、先生に注意されていた。

「なんでこんな簡単なこと言えないんだろう?」私は周囲のやりとりを聞きながらそう思っていた。

「お茶ください」と言わない子達の中には、きっと言おうと思えば言える子もいた。その子たちは多分、ちゃんと言われた通りにやらないことで生まれる先生とのやりとりを楽しんでいた。高度だ…!

しかしながら、私はそういう感性を持ち合わせていなかった。
しなさい、と言われたことはしなくちゃ、そういう感性の持ち主だった。そこに生まれるやりとりは、「はい、分かりました」だけが良いと。

このように、明確な指示には明確に従えたが、その他の場面ではむしろ、いわゆる空気が読めない人であった。
相手の言っていることが分からない。国語辞典に書いてあるような言葉の意味は分かっても、その文章が指し示すシチュエーションが分からなかった。
(ちなみに今は、そこまで極端に分からないと感じる場面は減ったし、慣れ親しんだ環境であれば、特に問題は感じ無い。)

人が普通に分かることが自分には分からない

こんなエピソードもあった。幼稚園生の時の記憶。お遊戯会の劇で、私はナレーター役を務めた。5人弱でパートを分けてのナレーション。自分が言うべきセリフは、ちゃんと分かっていた。しかしながら、いざ本番を迎えると、自分はいつ自分のセリフを読めば良いのか分からなかった。横でピアノを弾いていた先生に背中をトントンっとされ合図をもらってようやく、自分の番が回ってきていることに気がついた。

他にも、小学生の頃。外で遊ぶのが好きで、休み時間はほぼ、体を動かす遊びをしていた。ドッヂボールが特に好きだった。今思えば、それも、会話が苦手だったからだろう。休み時間や放課後おしゃべりしている子達が、どうして延々とそんなことが続けられるのか、全く理解できなかった。

余談だが、小学2年生まで、左右の区別がつかなかった。縦書きの文章を左から書いたり、「く」や「し」を鏡文字で書いたりしていた。

他にも、時間が守れなかったり、忘れ物が多かったりもした。

改めて文字にしてみると、本当に生き辛い子供時代だったな笑笑

浮いているという自覚

そんな私は、人が普通に出来ることが出来なかったが、校則やルールは守りたい真面目なタイプだった。班長、とか、学級委員とかを進んでやりたがった。

勉強は得意な方だったことも相まって、自他共に認める真面目キャラとなっていった。

が、学年があがるにつれて、だんだんと違和感が生じ始めた。「私って、浮いてる?」という感覚だ。

ん?と思い始めたのは、小学4年生ぐらいからだったと思う。 
周囲のあたりがキツいと感じることが出てきた。 
自分では理由は全く分からないが、周囲から攻撃されることが出てきた。なんか周りと違うっぽい、と感じ始めた最初の出来事だ。

小学4年生の2学期、とある事情で転校した。前の小学校とは一転、友達と教室でおしゃべりしているのが楽しい、と思うようになった。多分、転校生という物珍しさと、お互いにどういう人か知らない、という状況が、話やすい環境を作ったんだろう。

流行の話題に、ちょっとはついていけるようになった。この頃から、人から見える自分、というものを気にするようになった。いわゆるキャラ作りをした。人生で一番キャピキャピしていた時期だった笑

それまでほとんど見なかったテレビを見るようになって、芸能人や歌手を覚えた。ファッションにも、気を使うようになった。(それ以前は、出始めのユニクロのめちゃくちゃダサいフリースと半ズボンを着てた。)

それでもやっぱり、何か違う感は拭い去れなかった。普通の人になれない。そしてそれはだんだんと、自分には何かが足りない、という感覚へと変化していった。

人として大切な何かが自分には足りない

家庭環境の変化も関係あったかも知れないが、寂しい、苦しい、嫌だという感情をあまり感じないタイプだった。というか、厳密にはリアルタイムでは感じなくて、大分あとになって、あの時ああだったなぁ、と理解すると言った方が正しい。

小学校の道徳や帰りの会で、「人にされて嫌なことはしない」と何度も何度も聞いた。私自身もその言葉に納得はしていた。自分自身の経験として持っている言葉ではないが、よく使う言葉でもあった。

だが、今になって思うと、そもそも自分は「自分が人にされて嫌なこと」という感覚をほぼほぼ持っていなかった。
「自分が人にされて嫌なこと」は他人に対してしなかったが、「他人が人にされたら嫌なこと」はきっとしていただろう。その辺の感覚は未だに欠けているので、定かでは無いが。

ただその分、ポジティブ人間ではあった。コンプレックスも無いな、と思ってたし、基本的にいつも幸せだと感じていた。

小学校高学年、中学生、高校生、と段々と複雑なことを考えられる年齢になっていくと、自分には人として大切な何かが足りてないと強く思うようになっていった。ポジティブ人間だったから、そこまで深刻には捉えていなかったが。(というか深刻さに気づいてなかった?)

本当の自分はどれだ?

中学校は、転校前の小学校の子達が進学する校区に戻った。
久々の再開。またちっちゃい頃みたいに遊べるかなー??

懐かしくもある新生活を楽しみに迎えた入学式。放課後毎日遊んだ近所の子、昼休みに遊んだクラスメイト。うん、うん。覚えてる。

が、しかし、思っていた以上に、みんな見た目が成長していた。向こうも同じように思っただろう。お互いに、あの時のあの人だ、と認識はしあっていた。だが、あの時とは違う、と強く思ってしまった。昔の自分と、転校先での自分、そして今日からの新しい自分。一体どう振る舞えば良いのか分からなくなってしまった。

人見知り大発動。超絶困った状況になった。学校というものは、大抵出だしをミスったら終わる。私は、クラスに1人はいる、休み時間もずっと1人でいる、大人しい優等生(っぽい人)になった。

前述の通り、私は真面目な所がある。学級委員とかも積極的にやりたがるタイプだ。中学校でも、生徒会役員になった。教室で全然喋んないし、周囲と積極的にコミュニケーションをとろうとしないのに、皆をまとめる立場に立つ、という謎の状況が発生した…汗

自分としては非常に充実していたし楽しかったのだが、いわゆる黒歴史的な時期で、謎の言動も多かっただろう。(中学校の先生って大変そうだよなぁ…笑)

こちらはまあ、良い経験であった。問題は部活動だ。生徒会に入ったら、必ず部活動もしなくてはいけない、という暗黙の了解があった。

元々、バドミントン部に入りたいな、と思っていたけど、その中学校には無かった。だから体育館の部活から別の部を選ぶことにした。選択肢はバスケかバレー。バスケはなんか違うな…と思った私は、バレーボール部に入った。

そこは、なんかイけてる女子の集まりだった。まずこの時点で浮いた。部活、という環境は今振り返っても自分に一番不向きな環境だった。限りなく「同質」であることを求められた。強制される行動に違和感を持ってはいけない。ムリーーーー!!(もちろん、良い部活もあるだろうし、気の持ち様で変わる部分もあるだろうけどね!)

どんどん、どんどん、自分が異質だという感覚が強くなっていった。

燃え尽きて超絶ハイテンション

その頃から、じわじわと、暗い影が忍び寄っていた。3年生になり、生徒会を引退した。今思えば、燃え尽き症候群のような状態になってしまったのだろう。いきなり体重が10kg以上増えて、成績もガタッと落ちた。特別違う行動を取るようになった訳ではない。まだ、部活を辞める前だったので運動量は変わらない。勉強量も変わらない。明らかに体に不調を来していた。集中力もガタッと落ちた。

そんな事がありながらも、高校には無事合格。入学式を迎えた。今度は、1人、同じクラスに親友ができた。部活もその子と同じ部活に入った。美術部だ。美術部の部員は、変わってる人が多くて楽しかった。親友といるときと、部活中は、滅茶苦茶はしゃいだ。良かった~、また元気になった!と思った。だが、これも今思えば嵐の前の静けさ。
いわゆる躁状態のようなものだったと思われる。(病院にはいってないので定かでは無いが…)

そしてその時はいきなり訪れた。

引きこもり生活の始まり

きっかけは、1日だけ休もう、という気持ちだった。
1日だけ、特に明確な体調不良があった訳でもなく、学校を休んだ。

1度立ち止まったら最後、もの凄いスピードで坂道を下り落ちた。気づかなかっただけで、原因や兆候は山ほどあった。高校2年生の冬休み、不登校になった。家では毎日泣いていた。そんなはず無いのに、前からこうだったよね…と思った。何度か学校には行ってみたけど、勝手に涙が出てきそうになった。ダメだ、こりゃ。と思った。

そこからは、葛藤は色々あった。そもそも「不登校」という状況が自分の身に起こるとは、それまでの人生でかけらも予想していなかった。
それどころか、自分は当然、名のある大学に現役でいくもんだ、と信じて疑わなかった。でも、もう、学校には戻れない、と思った。

考えが移り変わった経緯は、まぁ、書くと長すぎるし暗すぎるので、かいつまんで言うと、ある時それまでの「真面目でいなきゃ」「優等生でいなきゃ」という考えを一旦横に置いてみた。そうすると、「高校を辞める」という選択肢が見えた。そして、もし高校を辞めたら…と考えてみると、頭のなかで頑固に絡まり合っていた糸がピーンっと、一瞬でほどける感じがした。

自分探しの長ーい旅へ

ではそこから物事が好転したか、というと、そうではない。
引きこもりニートとしての生活が3年という長い間続いた。

この3年間は、昔のことを、ただひたすら思い返していた。今この状況に繋がっている、最初の分岐点はどこか見つけたかった。どこに原因があったか、あの時どうしたら良かったのか、ひたすら答え合わせをしていた。

少し回復して、ぐんっと落ち込んで、を何度も何度も繰り返した。焦燥感や自己嫌悪を常に感じながらも、月日は流れ続けた。自分の思考の深く深くへと潜った。

今になって思うとこの時期は、分からなくなってしまった本当の自分を探し、自分に本当に必要な価値観を探し、自分が死なない訳を探した、自分探しの旅だったと思う。

この期間が無かったら、もしかしたら今も、必要ない価値観に縛られ右往左往する、残念な自分を引きずったまま生きていたかもしれない、と思う。

こんな人生でも、一度も後悔はしたことはない。グダグダでも、迷う度、自分で考えて必要なものを選択してきて良かった、と思う。全部、自分を形成するために必要な経験だったと思える。

そして、成人式の日を迎え、その翌日に働き始めた。
そこからは、外の世界に出て、また自分を形作る要素を集め始めた。

大人っていいじゃん!

外の世界に踏み出した、おおきな一歩になったのは、はじめて就いたパート。

実家の近所のスーパー。おばちゃんがほとんどだった。
ここはここで、空気読めよ~、抜け駆けするなよ~という圧はあったが、
学校や部活に感じた、居心地の悪い「同質さ」を求められる感じはしなかった。

体形も何でもいい、化粧もしててもしてなくても個性的でもいい、髪型も同じく。まともな人、普通な人でいなきゃ、という考えに縛られた人はほとんどいないように感じた。

おばちゃんという生き物は自由だ。(少なくとも表に見える部分は)
そのうち愛すべきおばちゃんたちについて熱く語る記事を書こうと思う。
で、そんなおばちゃんたちだから、「ちゃんとしなきゃ」というがんじがらめの気持ちをすっごく簡単にほどいてくれた。

大人っておもしれぇ!って思った。

ちゃんとしたちゃんとしてない人

そうして、この職場では結局3年間働いたのだが、最終的には、ちゃんとしたちゃんとしてない人になった。これって、一番良い状態だと思う。

まだ仕事ができないうちは、自分のヤバい部分は隠してたけど、仕事の面でそれなりに信頼してもらえる「ちゃんとした人」になると、「ちゃんとしてない」1面も、隠さずに見せられるようになった。

ちゃんとしたところを知らない人から見たら批判されそうなことも、ちゃんとしたところを知ってくれてる人なら、笑ってくれると思える。私は「変な人」ですと堂々と公言できる。この人なら分かってくれる、と思える。

そういう関係性をこの職場の人達と築けたことは、「変な人」と公言して生きる気楽さを教えてくれた。
ちゃんとした人間にならなきゃ!という強迫観念にも似た焦燥感から解放されつつも、ちゃんとすべきところはちゃんとする、というバランスを教えてくれたのであった。

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たぶんちょっとだけ似てる、オススメnoteです

この辺の変人さによっておこったさまざまなことを書いたマガジン


おいしいごはんたべる…ぅ……。