思考の熟考レベルに応じてアウトプット先を選ぶ

ポメラを使って非公開の内省メモをほぼ毎日書くようになって、改めて【思考の熟考度合いによってアウトプット先(公開先)を分けるべきではないか】と考えるようになっています。


 人によっては何を今更で当たり前のことを言ってるんだってと感じる話なんですが。
 ですが過去10数年くらいのネットを中心とした社会的文化は「小さなことでもいいから何でも公開の場でアウトプットすべきだ」との「一億総情報発信時代」ともいうべき状態だったので、そのアンチテーゼな意見を再度言語化してみたいと思います。


思考の熟考レベルを分類してみる

 ポメラをベースに自分の思考を整理するようになって、大別すると三階層の熟考レベルがあるなと気付きました。

熟考レベル1 頭の中にとりとめもなく浮かんだ思考

 常日頃から私たちの頭のなかには、雑多な思考が浮かんでいます。これをレベル1としましょう。

 ここで浮かんだことが全ての土台になるとはいえ、実はこのレベルの思考はもっとも質の悪いものでもあります。
 ちょっとイラッとしたことで理不尽な愚痴を言っていたり、自分のことを棚上げして不満を漏らしていたり、短絡的に何かを判断してしまっていたり。
 あとで冷静になって振り返ると「自分、アホちゃうか???」というレベルのことを考えてるはザラ。

 古くからあることわざや宗教の戒律、哲学が軽率な悪口や噂話を慎むよう警告しているのは、まさにそんな性質からでしょう。

 私はこのレベルの思考はあえて書き留めない、もしくはどうしても怒りの衝動などでおさまらない時はアナログな紙のメモに書き出して捨てる、忘れるようにしています。
 デジタルの膨大な記録容量を生かしてなんでも記録に残すのがいいことばかりじゃない。

 ぐっと一息ついて冷静になるだけで、しょーもない感情の9割はいつの間にか消え去っていきます。
 そうして残ったもの(その1割でも十分な量があるハズ)が次の熟考レベルに進んでいくわけです。

熟考レベル2 身近で気になることを記録整理する思考

 この次の熟考レベルで主に対象となるのは、身近にある考えるに値する事柄。
 ちょっとした日々の雑用メモだったり、職場や家族との悩み事だったり、自分の将来の選択についてどうするかだったり、世の中の気になって仕方ないトピックのことだったり。

 この段階になって初めてポメラのようなメモというツールが活躍してきます。

 頭のなかで考えているだけだと忘れてしまったり、同じ地点でグルグルと思考が堂々巡りするリスクがあります。
 メモなりノートなり、何らかの外部記録に思考を【アウトプット】して記録し、整理することで、より建設的な選択肢を思いついたり、感情の整理がついたり、雑用を漏れなくこなすことができたりするわけですね。

 ただし、このレベルの思考メモも原則非公開にするつもりで書くべきだと思います。

 身近な事柄すぎるゆえ、それをネットへ公開しようものならプライバシーが侵害されてしまう、なんて純粋で古典的な問題もありますが。
 それ以上に問題なのは、こうった身近なこともなんでもネット公開を意識してしまう=他人の目を意識してしまうと、批判を恐れて自分の思考や選択が歪むリスクが非常に高い。
 自らを進んで他者の目に晒し、自らを抑圧させてしまうことになります。

 私にとってポメラは、この段階の思考の大切さを改めて気付かせてくれた端末でした。

 最初はぶっちゃけネットへの情報発信量を増やすための手段になるかな、と思って買ったのですが。
 ネットに繋がらない端末というコンセプトゆえ、自然とポメラで書き出すメモはネットの公開を意識しないものになり、「他者の目に抑圧されず、自分の思考を思うがままに書ける」ことの大事さを偶然にも再発見することになりました。

熟考レベル3 ↑の思考を更に洗練したもの

 身近な事柄を整理していくうちに考えが洗練されてきて、つまりこれはこういうことなんじゃないか、と一般的な概念で説明できるようになることがあります。これこれについては自分はこう思う、といった「意見」と言ってもいいかもしれません。

 このレベルになって初めて、他人にその思考を「アウトプット」する、つまりネットなど公開の場で投稿することで
「自分の意見で周囲を変化させるなど影響力を発揮する」
「フィードバックを得て更に思考の質が向上する」など、明確に何らかの有益なメリットが得られる可能性があります。

 一方で必ずしも、メリットばかりが保証されるわけではなりません。
 当然意見を開示することには、反論を受けて自分の意見・姿勢・思考を貫けないリスクも出てきます。
 反論を気にしなければいいと言う人もいますがメンタルを消耗したり、評判が落ちるリスクが仕事上無視できなかったり等々、現実として大きな問題にぶち当たります。

 意見を開示することで得られるメリットとデメリットを天秤にかけて「自分の意見を開示しない」という選択肢を取ることは、おそらく今の世の中で考えられている以上にもっと尊重されていい、賢明な選択肢ではないでしょうか。

商業的都合で強制される全思考のアウトプット

 こうして熟考レベルを整理していくと「あえて思考をアウトプットしない、公開しないこと」のメリットが見えるわけなんですが。
 過去20年ほどの社会で極めて問題だと私が今感じるのは
(将来的な悪影響を鑑みず)常にユーザーに思考をアウトプットさせることを推奨するサービス・風潮が登場し、隆盛を極めたこと」です。

 たとえばSNSであれば、「身近なことをなんでもスマホからすぐに投稿しよう!」と推奨します。知見発信サービスであれば「記事を書いて投稿しませんか」とポップアップで誘います。
 そうしてコンテンツが集まればサービスの利益になるから。

 サービス側は合わせて「サービスを利用して投稿すればこんなにいいことがあるよ!」「投稿しないとチャンスを見逃してもったいない」「時代遅れになるよ」といったマーケティングも仕掛けます。

 ユーザーに何らかの投稿をしてもらうことがサービスの商業的存在意義そのものゆえに、「投稿することでこんなデメリットもあるよ」とはほとんどの場合、決して自ら語りません
 
 結果として、気付けば私たちは本来アウトプットすべきでない、公開すべきでない思考まで際限なくネット空間に吐き出す風潮に飲まれていて。

 一昔前であれば、一瞬のうちにカッとなって頭に浮かんだしょーもない怒りの言葉も、家に帰るまでに冷静になって忘れていれば良かったものを。
 今ならスマホで出先でカッとなってSNSに呟いてしまい、それが炎上を引き起こして自分のデメリットになってしまったり、社会的な空気を悪くしてしまったりする。

 テクノロジー(サービス)の仕様が、自己の利益を最大化する目的のあまり、進んで人間の浅慮短慮軽挙妄動を後押ししているのだ、と考えるとゾッとする話。


 コンピュータ科学者であるカル・ニューポート教授はこのような社会を「新しいデジタルツール(サービス)は何らかのメリットが見込めるなら使うべきであり、デメリットは無視するという風潮」と指摘します。
 そして、デジタルツールのメリットばかりを強調するマーケティングに惑わされず、ツールを利用することのメリットとデメリットを冷静に見極め、利用開始するツールは最小限に留めるべきである、と説きます。

 私は経験上、「とにかくxxすればいい」「何かいいことが起こるから」「デメリットなんて無視できる程度だよ」と甘い言葉ばかりで誘うモノは大抵詐欺だとくらい考えていいと思っています。美味しいだけの話ほどロクなことがない。

 ところがどっこい、ちょっと前までの情報発信推奨文化のフレーズ(何でもパブリックなネット上にアウトプットすべきだといった類いのもの)は、よく考えたらまんまこのパターンだったわけですよ。

 SNSがバズればお金が稼げるとか、有名になって社会的影響力が得られるとか、良い就職先へ転職するチャンスがあるとか。

 コロナ後に聞くようになった「SNS疲れ」というワードは、そうやってSNSを利用するメリットばかり強調したマーケティングの効果がついに限界に達し、SNS利用の精神的・時間的・金銭的デメリット等が一般の利用者にもバレてきた結果に見えるのです。

「なんでもネットにアウトプットすべきでない」という意見はネットに出ないバイアス

 非常にやっかいなのは、たとえ「これは軽率にアウトプットすべきではない」と思ったとしても、ネット上には「なんでもネットにアウトプットすべきだ」との内容がマーケティング的に大量に拡散されていて、どうしてもそれを受け取ってモヤモヤしてしまうわけですね。
 (ちょっと技術的情報収集のために某老舗技術情報発信ブログサービスの記事へアクセスしたら「あなたも情報発信しませんか?」とのポップアップが表示される、その精神的圧力よ……)

 一方で「なんでもネットにアウトプットすべきでない」との声は、その性質ゆえにネットで声高に何度も叫ばれることも、それがネット上で盛んに活動している人たちによって拡散される可能性はごく低いわけです。
 なぜならそういう人たちはネットに自分の意見を盛んにアウトプットしないから。

 結果、ネットを実生活に必要なだけ利用しようとするだけで「あれもこれもネット上にアウトプットしなきゃ」との一方的圧倒的圧力がかかる世界が発生するわけです。
 かといって実生活上まったく利用しないわけにはいかない。

 一挙に問題を解決するような魔法の解法があるわけではないけれど、まずはネットを利用するだけで無意識に影響を受けている文化的圧力の構造を知ること。
 その上で、マーケティングに惑わされず自分の目で冷静に各ツールのメリットデメリットを見極める術を身につけること。

 それが、どこかのサービスに自分の生活や魂を売り渡すような生き方ではなく、地道ながら自分で自分の暮らしを生きるために不可欠なスキルなんだなと、ニューポート教授の「デジタル・ミニマリスト」を何度も読み返しながらつくづく思うわけです。


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