見出し画像

ゼロの執行人 はくちょう(はやぶさ)がNAZU(NASA)の衛星なのはアカンやろ、という話

このnoteには、

・2018年の劇場版名探偵コナン「ゼロの執行人」
および
・2009年の細田守監督の劇場版アニメ作品「サマーウォーズ」

の劇中に登場する人工衛星に関わるネタバレを含みます。

その他の要素に関しては事件のトリックや犯人など核心的な要素への言及はしていないよう注意していますが、一切のネタバレを知りたくないという方はご注意ください。

私の記憶が確かならば、そしてその後も円盤発売にあたり作画修正がされていないならば―――ゼロの執行人を劇場で見たとき、冒頭の人工衛星登場シーンで4つのエンジンが全て灯っている描写がされていた。
その瞬間、人工衛星の元ネタである「はやぶさ」への制作陣の理解度に嫌な予感を抑えられなかったのだが、映画を見進めてゆくうちに残念ながらそれが的中する形となってしまった。

2018年に公開された劇場版名探偵コナン「ゼロの執行人」には、実際の日本の人工衛星「はやぶさ」をモチーフにしたと思われる人工衛星「はくちょう」が登場します。
この衛星、作中でははっきり言及されないものの、「NAZU」という架空の機関、つまり現実でいうところの「NASA」―アメリカの衛星であることを前提としたような展開になるんですが。

この改変、「はやぶさ」ファンの一人として「はやぶさ」プロジェクトの発足からその帰還、そして後継機「はやぶさ2」にかける関係者の発言・想いをつぶさに追いかけてきた身からすると

いや、その設定は一番やっちゃいかん改変だろ!

って物凄く叫びたくなるやつなんですよ。

そりゃ名探偵コナンという作品だって私は長年のファンですよ、わざわざ劇場に足を運ぶくらいには。
アニメ放送開始当初は少年探偵団と同じくらいの年だったのに今や新一達の年もとっくに追い越してむしろ小五郎達の年齢に近くなってしまったかぁと感傷に浸るくらいには長い付き合い。

近年になって安室透と赤井秀一が私のまわりでも大人気になったことに関してもまぁそういうこともあるか程度に許容してる。
(別ジャンルで似たような事象は経験済みだ)
というかむしろ私自身この二人か大活躍する映画「純黒の悪夢」は4DX含め3回くらい劇場で見に行ったくらいには好きです。

でもね、そういうのを差し置いてでも今回の劇場版におけるこの設定はダメだ、って言わざるを得ないんです、ほんとに。

はやぶさの生みの親の想い

なぜあの設定に反応したのかと言えば、「はやぶさ」計画とは
常にアメリカ(NASA)の後塵を拝している日本の宇宙開発の現状を打開し、日本の衛星がアメリカをも超える偉業を成し遂げることで日本の未来を切り開き、そして日本の子供達へ希望を与えることを目指した、研究者達の人生をもかけたプロジェクト
だったからです。

このあたりは私の陳腐な語彙力では伝えきれないので、「はやぶさ」プロジェクトリーダー・川口氏が講演等で語った内容を引用したいと思う。

「はやぶさ」は(略)小惑星ランデブー計画として検討された。ランデブーとは片道飛行。到着する所までだ。私達はアメリカ、ソ連から25年以上も遅れて惑星探査を始めた。ビギナーの駆け出しだから手堅く行こう、と私達が思っていた。
でも何とかオリジナリティーを発揮したい。
(略)
その当時、世界で私達だけが小惑星に探査機を送る計画、小惑星ランデブー計画を持っていた。オリジナリティーの発揮に拘った。行きついた結論がイトカワだった。NASAですらためらうような計画にチャレンジしなければ、私達のオリジナリティーは発揮できない。そう思ってこの計画に辿り着いた。
私達は最後には野望を抱いていた。1986年、その当時すでに小惑星サンプル・リターン計画を構想していた。しかしこの時代、まだイオン・エンジンの準備がなかった。だから、この段階ではプロジェクトがスタートすることはなかった。でも最後にやるのはサンプル・リターンだ。ランデブーではない、と私達は信じていた。NASAとの最後の勉強会の席上、私は思わず言ってしまった。
NASAがランデブーをやるなら、我々はサンプル・リターンをやる」と。
根拠があって言ったわけではない。計算もしていなかった。あまり口惜しかったので、破れかぶれ、はったりで言い出した。
これが「はやぶさ」計画の始まりだった。

北海道高等学校教育研究会50周年記念大会報告(http://d-kokyoken.jp/head/pub/udd2tk0000005ghd-att/udd2tk0000005gjn.pdf)より

「はやぶさ」計画の(最初の)構想が生まれることとなる、NASAとの共同勉強会が行われたのが1986年。
はやぶさ打ち上げ、探査を経て地球に帰還したのが2010年。実に四半世紀近くに渡る、研究者達の人生をかけた一大プロジェクトだった。
そこにはそれほどの時間を賭して「NASAではなく日本の我々がやらねばならない」と計画を立ち上げた人々の想いがあった。

これほどの想いで実現した「はやぶさ」計画も、数々の苦難が降りかかり帰還が絶望視された2000年代後半、後継探査機「はやぶさ2」の予算は無駄遣い削減の名のもと、時の政治家の「二番じゃダメなんですか」という言葉とともに事実上中止となってしまっていた。

宇宙開発の技術者達はただでさえ探査機開発に関わることができる機会、ひいては技術継承の機会が非常に限られている。
「はやぶさ2」の中止はつまり、せっかく初代「はやぶさ」で培った技術経験の継承が途絶えることを意味する。
二番になるどころか競争からみすみす脱落しようとするにも等しい。

その窮地を救ったのが他ならぬ初代「はやぶさ」の劇的な帰還劇と、それによる世論の盛り上がりを受けた予算復活だ。

「はやぶさ」の帰還は日本の科学技術振興、ひいては日本という国の未来を左右したと言っても過言じゃない。

しかしそれでもなお潤沢とは言えない予算環境による綱渡りのような状況が続いている。
このような国の予算政策に対して、当時川口氏はこうも記している。

国民に自信と希望を与える政策がとられているのか、率直に申して、大いに疑問を感ずるところです。
自信と希望で飯が食えるか、との声があるかもしれません。しかし、この国が将来成長できる国であることを信じられなければ、けっして閉塞から抜け出せるはずはないのです。
それを担うはずの、今は中学、高校、大学生かもしれない次の世代がそれを実感できるのか、実感させることができるのかが問われているはずです。この国が、我々が、創造できる国であることを確信できなければ、将来はありません。
この創造できる国だと確信させる政策にためらうことは、耐え忍んでいけば先が見えるという誤解に起因するのだと思います。
地球の裏側では、たとえ後方集団入ることになろうとも、はやぶさ-2 の4倍近い経費を投じて、科学意義、そして国民に矜持をあたえる政策をとる国(米国NASA)があるかと思えば、
主導的立場に身をおくことに自信もなく、少ない経費をなお削減し、わざわざ後方集団にさがって国民を落胆させる政策をとろうという国がある。なんとも情けないことではないでしょうか。
真の国益とは何か、次世代の国づくりをどう行うのか、それが見えないのでは、真の復興、つまり国の将来を作ることはできないのではないか、と感じます。

はやぶさ後継機に関する予算の状況について(http://www.hayabusa.isas.jaxa.jp/j/index.html)より

【ゼロの執行人】という映画は「日本」を想って行動する、公安・検察・警察といった国家機関に属する人々の群像劇のような作品である。

その中で、彼らに負けず劣らずこれほどまでに「日本のために」という想いで、そして「NASAではなく我々が成し遂げるのだ」という想いで探査機計画を立ち上げた人々の話が、作品の片隅でいとも簡単に現実のNASAを思わせる「NAZU」という機関のものとされてしまっている。

正直言って、制作側がどこまで「はやぶさ」のエピソードを知っていた上で「はくちょう」という探査機を登場させたのか、私は甚だ疑問に思う。

制作側はどこまで「はやぶさ」を知っていたか?

物語にフィクションはつきものだ。
自分は仕事柄どうしても創作物の科学的な【嘘】にはよく気が付いてしまうが、別にフィクションでも楽しめればいいと思っている。
むしろ話の根本を抜きにして科学的考証にばかり拘る作品や、科学的に忠実でないというだけで難癖をつける同業者はやるべきことの順番を履き違えていると思うくらい。

コナンの昔の映画「天国へのカウントダウン」ラストシーンで、あれを現実にやろうとすると実際の経過時間は無茶苦茶なことになっているなんてネタ話があるくらいだけど、それでも間違いなくこのシーンは私の大好きな場面の一つだ。

なのになぜ映画冒頭の「エンジンが4つ灯っているシーン」に、私が嫌な予感を覚えたのか。

もちろん純粋に科学考証が間違っているのは確かです。
「はやぶさ」が持つあの後ろの4基のエンジンはイオンエンジンと呼ばれるものです。
これは3基までを同時使用するものであって、1基は予備。だから4つ全てを使っている(点灯している)状態なのはありえない。

でもこれは、単にそれだけの話じゃないのです。
その理由は2つ。

一つは、これまでのできるだけ忠実に探査機「はやぶさ」を描いた作品では、イオンエンジンが3つまで(あるいはそれ以下)しか点灯していないことが視覚的に非常に分かりやすく提示されているのです。

「はやぶさ」の旅路と帰還を描いたプラネタリウム作品「HAYABUSA BACK TO THE EARTH」の予告編を見ればその描写は一目瞭然ではないでしょうか。

「はやぶさ」の全てを科学的に忠実に描くのは難しい。
でもこの視覚的に分かりやすいイオンエンジン描写ならば、ある程度「はやぶさ」のことをちゃんと調べていたのであれば、ここを簡単に間違えるとは、私には思えない。

もう一つの理由は、「はやぶさ」がその劇的な帰還劇を世に知らしめるきっかけとなったのが、帰還直前の2009年11月のイオンエンジン故障とその復旧劇だったからです。

当時に投稿されて話題となった、宇宙戦艦ヤマトの登場人物になぞらえて「はやぶさ」の旅路を説明する動画があります。
ここにおいても、「はやぶさ」が帰還直前、イオンエンジンが何基稼働していたのかが語り草になっているのかを推察できるかと思います。

こういった経緯を踏まえると、どうしても私は「イオンエンジンを4つとも点灯させている」という冒頭の描写があった時点で

【明らかに「はやぶさ」モデルの探査機を登場させておきながら、実際の「はやぶさ」のことはほとんど知らなかったのではないか】

と疑問視せざるを得ないのです。

その上で「はくちょう」があのNASAを思わせる「NAZUの探査機」という設定が出たときに感じた感想としては、もう上に書いた通りで。

今回の制作陣は、「はやぶさ」のことを【地球に帰還して大気圏突入しカプセルを投下した探査機】という、ただそれだけの知識で、
体の良い舞台装置
として、今回の作品における日本と諸外国の対立を引き起こす起点とさせるために「NAZU」=NASA=アメリカの探査機という設定にしたのではないだろうか。

もし今回の映画に出てきた「はくちょう」が純日本の探査機で。
「はくちょう」に携わる人々の日本に対する想いが描かれていて。
カプセルの行方に奔走するコナンくん達が、単に人命だけでなくカプセルが無事回収されるかどうかが国の未来すら左右しかねないという意識で行動していたのなら。

たとえあのラストバトルの「はくちょう」を巡る物理的な描写が現実的でなくとも何も拒否感はなかったし、制作陣の「はやぶさ」に関する見識を疑うことはなかったと思います。

サマーウォーズとの決定的な違い

このコナン映画と同様、「はやぶさ」モチーフの衛星が登場してラストバトルにかかわってくる展開になる映画としては、細田守監督の「サマーウォーズ」がありますが。
この作品においては「はやぶさ」が体の良い舞台装置扱いだ、って嫌な思いになったことは一度もないんですね。
その理由は公開時期

サマーウォーズの公開が2009年8月。
「はやぶさ」が数々の苦難に見舞われて帰還が絶望視されたのが2005年以降。
はやぶさ帰還が話題となったのが2010年。

皮肉にも「はやぶさ」帰還ブーム火付け役になったと言っても過言ではない最後のイオンエンジントラブルですら、映画公開後の2009年の11月です。

制作期間をも踏まえれば、「はやぶさ」の帰還が本当に成功し得るのか半信半疑となっていた頃に、細田監督は「サマーウォーズ」で
満身創痍の探査機が地球に帰ってくることに成功した」
という描写をしたわけです。

それは何より制作側に、世間一般の人々の知識を上回るレベルで「はやぶさ」についての詳しい知識があったことの証左に他なりません。

なおかつあの時期に「はやぶさ」を模した衛星が地球に帰ってくるという展開を入れること自体が、ある種の「はやぶさ」帰還に対する祈りのようなものを感じさせるんですよ。

傍から見れば「はやぶさ」という探査機をフィクションで取り扱ったという意味でよく似ている二作品かもしれないけれど、その扱いには天と地ほどの差があると思います。

はやぶさはなぜ大気圏突入したか

この映画の「はくちょう」には、現実の「はやぶさ」やサマーウォーズに登場する「あらわし」と違って、帰還直前に機体が満身創痍だったとかそんな話は微塵も出てきません。

では、ここでもしもの話をしましょうか。
もしも「はやぶさ」が、この映画の「はくちょう」のように万全の状態で帰ってこれたら。

「はやぶさ」は、あれだけボロボロになっていなければ、本当は大気圏突入させる予定はなかった。

大気圏から十分離れた位置でカプセルを切り離し、はやぶさ自身は化学エンジン(上述のイオンエンジンとは別物)を噴射して地球を離脱し、更に他の小惑星探査に向かうつもりだった。

機体寿命でそれは無理だったとしても、せめて太陽を回る軌道に乗せるだとか、兎に角大気圏突入という「はやぶさを死なせる」ようなことをしたくない。
関係者達はそう思っていた。

あの結末になったのは、「はやぶさ」は地球到達時には化学エンジンの故障を含め帰還時にはもう満身創痍で、遠くの距離から正確にカプセルを目的の位置に射出する制御が出来なくなっていたから。

救えないかと様々な可能性を模索した。
でも、どれほど困難な状況においても「はやぶさ」プロジェクトを遂行してきた人々ですら、カプセルを無事に地球へ帰還させた上で「はやぶさ」を生き残らせるという方法は、ついに見つけることは出来なかった。

「はやぶさ」の大気圏突入というのは、それほど考え抜いた末に下された、苦渋の決断だったのです。

地球帰還直前で満身創痍の「はやぶさ」がイオンエンジンに異常を起こしてこれまでかと思われた時。

先にも紹介したプロジェクトリーダー・川口氏は、まるで「はやぶさ」が地球に帰れば自分の命を捨てて大気圏突入することになる運命を悟り、イヤイヤをしているように思えたのだという。

それでも技術者達が全力を尽くし、リーダーすら知らなかった秘策を持ち出してイオエンジンを復旧させることが出来たとき―――つまりカプセルの地球帰還のため、「はやぶさ」が己の死に向かって自分自身で一歩踏み出したとき、川口氏は当時の心境を後にこう懐述している。

「はやぶさ」、そうまでして君は。
「はやぶさ」の帰還がせまるなか、2009年11月、すべてのイオンエンジンの寿命がつき、運用停止に追い込まれた。
だが、われわれプロジェクトは、彼をあきらめさせることなく、動くものはなんであれ動員してあらためて走りださせることに成功した。

いや走らせてしまった。

運用再開を喜ぶなかで、私は、若干複雑な気持ちも併せてもっていた。
「はやぶさ」は、本当は帰還を嫌がったのではないか。
知ってか、知らずか、「はやぶさ」を待ち受ける運命は、大気再突入で燃え尽きることだ。もちろん、子のカプセルを運び、ともかくも所定のレールに載せた後にはなるのだが。

どうして君はこれほどまでに指令に応えてくれるのか?そんなにまでして。
イオンエンジンの運転が再開したとき、そんな気持ちをもってしまった。
われわれが、方策を考えあぐねていたならば、それは君を救う道だったかもしれない。
使命を全うするのか?それとも、いやいやをしたいのではないのか。
「はやぶさ」にはぜひがんばってほしい、と思う反面、その先に待つ運命は避けられないものかと思う。
空力的に大気でジャンプする案など、力を得ることもできるのだが、度重ねた検討によっても、熱の壁が先に来てしまい、救えないことはわかっている。

この帰還の運用には、一度きりのチャンスしかない。万全の備えが必要だ。
しかし、この万全さは、逆に、「はやぶさ」自身の最期を確実に演出してしまう残酷さにつながってしまう。
おもえば、この運命は、化学エンジンがつかえなくなった2006年の時点でわかっていたことなのだ。
帰って来るなというわけにはいかない。万全の準備とは、冷酷な準備でもある。
「はやぶさ」が切り離すカプセルは、「はやぶさ」自身の思いを載せて、次の後継機への「たまご」となると考えるべきなのだろう。
「はやぶさ」自身もそれを望んでいるのだ。

イオンエンジンによる長期の軌道制御が終了した3月末、君はどうしてそんなにまで、とふたたび思った。
けれど、その時、「はやぶさ」の覚悟が何であり、何を望んでいるのかが、わかった気がした。
たまごを受け取って孵(かえ)してあげること。それをしなくてはならない。

満身創痍。ハードウェアとしては、たしかにそうだ。しかし、自律機能や判断能力といったソフトウェア面は今までもちゃんと機能してきた。けなげにもがんばった。
ところが、最近は、「はやぶさ」の頭脳や感覚にも老化が現れてきている。記憶であるRAM データレコーダにはビット反転が頻発し、頭脳であるDHU でも反転が発生、感覚器であるジャイロも反転が起きやすくなってきていて、動作も今や確実でない。
そろそろ寿命が全うすることは、「はやぶさ」自身が感じているのかもしれない。
これ以上、長い飛行を続けるのは苦しいだろうと思う。無理だろう。

この6月、「はやぶさ」自身が託したいことをやりとげられるよう運用すること、彼が託すことをかなえてやることが、彼自身にとって最良な道なのだと、ようやく悟れたと思う。

http://hayabusa.jaxa.jp/message/message_001.html

カプセル切り離し後、ただ死を待つだけの「はやぶさ」に、プロジェクトチームは最後に粋な計らいをした。

最後に「はやぶさ」へ故郷・地球の姿を瞳に収めてもらうべく、探査機搭載のカメラを動かして地球を撮影しようとしたのだ。

カメラを地球の方向へ定めて撮影する。
なんでもないように思えるこの動作も、満身創痍の「はやぶさ」にとっては苦難の連続だった。

地上からの指令でカメラを動かすも、地球の撮影に失敗すること数枚。

通信が途絶する直前、最後に「はやぶさ」から送られてきた写真にだけ、くっきりと地球の姿が写っていた。

まるで涙に滲んだような光の筋。

写真下部が灰色なのは、写真データの受信途中に最後の通信が途絶したから。

それが何よりも、その後に彼を待ち受ける運命を雄弁に物語るラストショットだった。

「はやぶさ」が繋いだ灯を消さないために

この映画の日本のために己が身を捧げて闇を駆け抜ける人々の物語でもある。

そこに心動かされたのなら、「はくちょう」のモデルになった人々にも、負けず劣らず日本の未来を想って生きた人々がいるのだということを、どうか蔑ろにしないでほしいと、制作陣に対して切に思いました。

宇宙開発の予算というのは、時の政治家の見識に依るものも大きいけれど、「はやぶさ2」の予算復活を巡る出来事からも分かるように、結局のところ世論に依るものもある。
世間の無関心がそのまま直撃するといっても過言じゃない。

折しも今(2019年4月)、「はやぶさ」が身を犠牲にすることで復活した計画「はやぶさ2」は、目的地となる小惑星「リュウグウ」への着陸・サンプル回収という大役の最中にある。
無事に進めば来年2020年、ふたたび「はやぶさ2」は地球に帰ってくる。

そして今度こそ「はやぶさ」と違い、「はやぶさ2」はカプセル投下後に生きて地球を離れ、「はやぶさ」が見ることが出来なかった新たな旅路の景色を見ることができるかもしれない。

この映画の「はくちょう」を通じて「はやぶさ」のことを知った人々には、ぜひこの「はやぶさ2」のことも応援してほしいと思う。

最後まで読んで頂きありがとうございます! いただいたサポートは記事を書く際の資料となる書籍や、現地調査に使うお金に使わせて頂きますm(_ _)m