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はるか彼方の都市伝説
その日、ぼくは地下鉄に乗って、ただただ現実から遠ざかろうとしていた。
地面に敷かれていたレールが筒状のチューブに、角ばった車両が流線型のカプセルに変わってから、もうずいぶん経つ。それなのに横文字の呼び名が定着しないのは、ここが日本だからだろう。西暦二〇〇〇年頃のそれとは外見からスピードまで驚くほど進化しているが、人々にとってやはり地下鉄は地下鉄で、列車は列車らしかった。
このまま遠くへ行ってしまえば、ぼくは束縛から逃れられるだろうか。
海底をぶち抜いて張り巡らされた筒の中を、時速一千キロメートルの車両が駆け巡る。もし北の端から南の端まで行くとしたって四時間前後、それでいて飛行機に比べて安上がりで手続きも簡単とあって、初めて実用化されたときには国中がお祭り騒ぎだったらしい。が、慣れとは恐ろしいもので、今日では日帰り出張の増えたサラリーマンの恨み節が風景の一部となっている。
生活に疲れた一般市民、そんな人が町中に溢れていて、残念ながらぼくもそんな人々の中の一人だ。生きることに前向きになれず、ついに仕事をほっぽり出してシートの上に座っている。周りを見てみるがいい、この平日の午前中、生気のない人間のどれだけ多いことか。
「お若いの、旅行か何かかね」
「あ……はい」
不意に、年老いた男性から声をかけられた。すぐ隣のシートからだ。
せっかく独りの感傷に浸っていたというのに――ぼくは短く曖昧な返事をするだけだった。
「行き先を聞いてもいいかね?」
「――行けるところまで。眠いので、横になります」
「そうかそうか、邪魔したの」
くすんだ色の衣類に身を包んだ、普通の老人。 人と話すのも億劫になっていたぼくは早々に会話を切り上げ、シートの背に体をあずけた。
それからしばらくの間、本当に眠り込んでしまったようだ。目に映ったのは自室でも職場でもない……そういえばぼくは地下鉄に乗っていたのだった。日々のほとんどが職場に缶詰のぼくにとっては、ちょっとした非日常だ。とはいえ寝て起きたからといって車内の風景が大きく変わるわけでもなく、時間の感覚が薄い。
「う……ん」
ぼくはまぶたをこすりながら腕時計を確認した。どうもぼくが乗り込んでから三時間近くが過ぎているようで、つまりはそれだけ寝ていたという事になる。一体、日々の疲れをどれほど押し隠して生きていたのか。
「目覚めなすったかね」
声。瞬間、ぼくは驚きで肩を跳ね上げた。
ぼくの隣にはまだ、あの老人がいた。ぼくはともかく、この人はどこへ向かっているのだろう?
「まだ乗っていたんですか」
「ほほ。皆、行き先は一緒じゃからの」
あまり年寄りを邪険にするのも、と相槌程度に応じただけだったが、行き先が一緒と言われ、ふと気づいたことがある。隣の老人を含め、どこにも降りないまま地下鉄に乗り続けている客が多いのだ。それに。
乗車してから三時間も経っていれば、とっくに終着駅に着いていておかしくないはずだ。だのに、この列車はいまだ停まる気配がない。
でもまあ良いか――行けるところまで、その意思に嘘はない。ぼくはもとから投げやりな気分だった。
「何か、悩み事がおありかね」
「えっ……やっぱり、わかりますか」
なるべく、日々の鬱屈を表に出さないようにはしていた。といっても、毎日洗面所で鏡を見ていれば嫌でも自覚せざるを得ない。 ぼくの顔もまた、生気が残っているとは言い難かった。
「この車両に乗っているのは、ほとんどそういう人間ばかりじゃよ。老いも若きもじゃ」
改めて周囲に目をやれば、誰も彼もが俯き、目を伏せ、呼吸以外のあらゆる行為を拒否しているかに見えた。空気が重く澱んでいる。そんな中、ぼくの隣に座る老人だけが、優しい微笑とも気味の悪い薄ら笑いともとれる笑みをたたえていた。
「……なんだか、疲れてしまって」
来る日も来る日も、朝早くから夜遅くまで仕事。昔に比べると自動化された部分も多いといえ、人手が全く必要ないというわけでもない。少子化の流れはついに歯止めがかからないまま人口が減り続け、結果、働き手が減った。業種によってはより過酷になったところもあるくらいだ。
人口が減って自殺者の数自体は減ったように見えるが、割合としては増加傾向にある。好景気の恩恵は一部の富裕層が享受し、ぼくたちのような一市民にはあまり関係のない話だった。
「ぼくの人生、上向くことはないんじゃないかと思えてしまって」
「自分の意思ひとつじゃよ。やり直しはいつでもできるもんじゃ」
「そう、なのかな」
他人にこんな話をしたのは初めてだった。ただ誰かに聞いてもらいたかっただけなのかもしれない。
「世の中、わからんことの方が多いもんじゃ。意外なところに活路があるかもしれん」
「もし何もなかったら――」
「ほほ。無責任なようじゃが、自分で考えていくしかないの。お前さんの人生はお前さんのもんじゃ」
結局は、そうか。誰も助けてはくれない。
けれどそういえば、誰かを真剣に頼ってみたこと、今までにあったかな。
何かを変えようと試みたことが、果たして。
目的もなく飛び出して、ぼくは本当はどこに行きたかったのだろう。
「皆は……この列車は、どこに向かっているんでしょう」
「地の果てじゃ。地獄じゃよ」
「え!?」
表情を変えないまま、淡々と言う老人に、ぼくは目を丸くした。子供だましにさえならないジョーク、そうであってほしかった。
「冗談でしょう」
「おや、知らんかね? 都市伝説として伝わっとったと思うとったが」
「何かで読んだことはありますけど」
一時期――といっても、もう数百年は昔の話だったと思う。そんな作り話があった、ということだけは記憶しているが。
「誰かが面白半分で作ったたちの悪い噂、単なる迷信じゃあ」
「それが、そうでもない。他の客は皆、死に場所に向かっているんじゃよ」
「そんなバカな!」
とはいえ、一向に先が見えないのも、客に希望の欠片さえ見つからないのも事実だ。地下鉄の行き先が死後の世界だなんて、どこかの誰かが大昔にでっち上げた大嘘とばかり思っていたのに。
と、突然に列車の速度が落ち始めた。どこかに停まるというのか。とすれば、そこはもう。
「ぼくは、地獄に落とされてしまったのか」
悲嘆にくれるぼくに、老人が言った。
「心配なさるな。ここはまだ終点のひとつ手前、終点以外で唯一の停車駅じゃ」
「唯一……」
「ここで降りんと、戻ることはできなくなるぞ」
自ら進んで降りようという人は、見る限りではいない。
ぼくは――ぼくは。
「降ります、ここで」
「そうかそうか。是非ともそうするがええ」
ホームへ足を踏み出すぼくを、老人が列車の中から送り出してくれた。
他に降りる人はいなかった。
「しばらく待っとれば、帰りの便が来るはずじゃ」
「あなたは」
「儂はただの案内人じゃよ。始まりから終わりまで、生きも死にもせんものじゃ」
やがてドアが閉まり、列車が遠ざかってゆく。いくばくかの人間を乗せて。
行き先はやはり、老人の言った通りなのだろうか。
時代とともに、文明は確実に進歩した。けれど今なお単なる噂、都市伝説といったものが人を引き摺りこむのは、人間の抱える悩み苦しみが、結局のところ今も昔も変わっていないからではないだろうか。
大昔には神社のわきの小道で起こっていた神隠しが、生活の変化に合わせて地下鉄の進む先に移り変わった、ただそれだけではと。
もしぼくがまた失意に呑まれたとき、再びあの老人と会うことになるだろうか……。
……。
「う……ん」
ぼくが目を開くと、ドアから多くの人が出入りしていた。
そうだ、ぼくはまだ列車に乗っていて、またも眠ってしまったらしい。しかし今度は隣に老人はいない。代わりに別の人がシートに座り、他も忙しく人が入れ替わり……。
「……ん? 駅に着いたのか!」
それまで進み続けていた列車が、駅に停車しているではないか。こうしてはいられない。駅名に馴染みはなかったが、ぼくは構わず降りた。少なくともここは地獄ではない。
エレベーターで地上に出ると、見慣れない町の風景が広がっていた。どこか遠くへ来てしまったのだろう。折角だし、一晩泊まって羽を伸ばしてから帰ってもいい。帰りもどうせ時速一千キロメートルだ。
さっきまでのことは、ただの夢に過ぎなかったのだろうか――いや、大事なのはそこじゃない。
夢なら夢で、その夢のおかげでほんの少しだけ前向きになった自分が、確かに今ここにいる。二十三世紀にもなって悩みや苦しみの形が変わらないなら、それらを手放す方法も大して変わっちゃいないのだろう。
「やるだけ、やってみようか」
ぼくが次に地下鉄に乗ったときには、あの老人の姿はなかった。
願わくば、このまま二度と会うことがありませんように。
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