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 狭い部屋だった。
 キッチンに風呂とトイレ、あとは、その部屋ひとつ。最小限の家具だけが置かれるに留まり、目に入るものは数えるほどもない。良く言えば清潔感のある、悪く言えば殺風景なこの空間で、一組の夫婦が暮らしていた。
 朝がやってくると、二人は早くから起き、夫は仕事の支度をして、妻は食事の準備をした。早朝の忙しい時間は瞬く間に過ぎて、夫が朝食もそこそこに玄関の扉に手を掛けると、妻はいつも後ろから見送りの声をかけた。ただ、夫はほとんどそれに応えなかった。夫は無口で、口下手な人間だった。
 夫が仕事に向かうと、そのすぐ後には妻も働きに出る。二人は共働きで、時代のせいかそれでも生きていくのがやっとだった。結婚から三年ほどになるが、まだ生活は豊かにならなかった。
 部屋に揃って二人でいる時間は少ないし、連れ立って歩く様子もない。喧嘩こそないようだが、特別仲が良くも見えない。どうしても苦労ばかりが目につく二人は、いつになったら別れるものかと周囲からいつも囁かれた。
 普段は妻が先に帰宅する。夫はたいがい夜遅い。二人とも仕事で疲れていれば、会話らしい会話がない日も多かった。仕事に行き、帰り、寝るだけの生活。子供を育てるのはまだまだ先の話になりそうで、それでも二人は一緒にいた。
 別れた方が幸せになれるんじゃないか、とは隣近所から聞かれる言葉で、そういった住人たちとの付き合いは概ね妻が引き受けていた。妻は決まってこう答えた。
 裕福ではないけれど、わたしたちは二人でいるのが幸せですから、あの人も、本当はとてもいい人ですから、と。
 妻だけが知る、妻だけにしか見せない夫の優しさがあった。

 日々、家事と仕事とをこなし支えてくれる妻に、夫は何も言わなかった。夫は無口で、口下手だったから。
 だから、夫は伝えきれない気持ちを手紙に託した。
 一見して無味乾燥な日々も、多く過ごしたかもしれない。それでも、心浮き立つ日、大切な記念日は、確かにあったのだ。
 妻の誕生日、結婚記念日、初めて二人で出かけた日、特に嬉しいことがあった日。そんな日には、夫は決まって短い手紙をしたためた。

 おめでとう。
 ありがとう。
 また楽しい時間を過ごそう。
 苦労をかけてごめん。
 ずっと一緒にいよう。
 
 ただのメモ用紙より少しだけ綺麗な紙を用意して、いつもより少しだけ丁寧な字を書き、妻が好きな色の便箋に入れて、テーブルの上に置く。一年のうちにほんの数回、夫はそれを繰り返した。
 その他の日々に比べればとてもわずかな『特別な日』、けれどもちゃんと特別なものとして残っていく。夫婦にはその実感があった。夫は無口で口下手だったが、誰よりも妻を大切にしていて、妻はそんな夫を誰より理解していた。金銭に替えられない存在の尊さを、互いに認め合うことができていた。
 いつでも好きなものを食べられ、好きな所へ行けて、好きなものが買えたらどんなにすばらしいだろう。そうと考えなかったわけでは決してない。よりよい自由があればと。
 けれども夫は妻の手を離さず、妻は夫を突き放しはしなかった。これまで苦難の多かった二人だ。時々は仲違いもあった。それでもなお、手紙の最後に添えられ続けた言葉が、ひとつあった。
 愛している。
 言葉はどうあっても感情の機微を表すに及ばず、しかし人はそれを言葉で伝えるしかない。だから口下手な男は今にも溢れそうな気持ちを小さな紙に綴って、妻へ贈った。
 お互いを思い遣る心があれば、きっと人は強く結ばれると信じて。
 誰もいない狭い部屋は、今日も陽の光で満たされていた。

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