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恐怖のヨーグルト

 便秘になってしまった。
 有り体に言って、屈辱である。まさかこのオレが、こんな無様な症状に悩まされる事になるとは思いもよらなかった。
 ひいき目に見て眉目秀麗文武両道、幼い頃より多くの名声をほしいままにし、一流の会社で一直線にエリートコースをひた走ってきたこのオレが、二十代の半ばにして――便秘! 
 社内で神か仏のように崇め奉られているこのオレがまさか便秘だなどと知られては、大幅なイメージダウンは避けられない。オレの持つ完全性はまさに天上から地の底まで落ちるといっても過言ではないだろう。
 考えてみるがいい。それまで瞳を輝かせながらオレを崇拝していた他の社員の眼差しが、一瞬のうちに『ああ、あの人でもやっぱりそういう時があるんだね』という、同情と憐れみと、わずかな嘲りを含んだものに変わるのだ。それだけはどうしても避けなくてはならない。オレはオレでなくてはならない。
 当初は気にするまでもないと思っていた。だが、もう十日も出ていない。どうやら事態を甘く見過ぎていたようだ。とはいえ原因に察しはついている。
 いかにオレが完璧な人間といえど、そのイメージを維持するとなるとそれなりにストレスがたまる。その解消がてら、家での食事に関してだけは気を遣うことなく、ひたすら暴飲暴食を続けていたのだ。質もバランスも度外視で。
「ちっ、もうすぐ三十路ともなると、これまでのようにはいかないか」
 部屋の中で一人、オレは呟いた。目の前ではノートパソコンのディスプレイが淡い光を放っている。インターネット最大手のショッピング・サイトを閲覧しているのだ。今の時代、クリック数回でどんな品物でも届く。オレはここ数日同じ作業を続け、ある品物を探していた。
「あった! 間違いない、これだ」
 その品物とは――ヨーグルト。
 ヨーグルト程度のもの、外に買いに行けばいいと思うだろう。これだから素人は困る。買いに出るとなると必ず誰かに見られてしまう。レジのおばちゃんに『案外可愛らしい買い物してる』とか思われたり、万が一同僚に見つかったりなどして『実は甘党かも?』とかいう軟弱なイメージがついてしまってはいけない。
 内容量百グラムと少しのカップが十二個入っておよそ六千円、相場よりは割高だ。しかしユーザーレビューは概ね高評価で埋められ、非常によく効くと書かれている。
 こと、便秘には。
 オレは迷わずその品物を購入し、品物は土曜の朝、会社が休みの日に届くようにした。本当にレビュー通りの効果が望めるなら、昼以降いくらか食べておけば日曜の朝にはスッキリという寸法だ。
 待ち焦がれた土曜は瞬く間にやってきて、宅配業者から小さな段ボール箱を受け取ったオレは、すぐに中身を確認する。
「見た目は普通のヨーグルトだ。が、なかなか強気でアピールしているな」
 パッケージには最強乳酸菌だの腸内環境絶対改善だの、不当表示になりかねないコピーがバンバン印刷されていた。まあ、効果が追い付いていれば問題ないのかもしれない。
「これは――?」
 そんな賑やかなコピーに紛れて、気になる注意書きがひとつ。
『一日一個以上摂取しないこと』
 特定のビタミンを多く含む食品や飲料などでは時々目にする一文だ。ヨーグルトでそういった制限がよくあるものかどうかは、オレは知らないが。「今は効けば何でもいい。とにかく試してみるか」
 控えめの夕食を終えた後、オレはそのヨーグルトをひとつ平らげた。

「なんて、なんて清々しい朝なんだ!」
 翌朝。ヨーグルトの効果は抜群だった。
 最近すっかりご無沙汰だった便意に起床を促されてトイレに駆け込むこと数分、まさに表示とレビューに偽りなしの劇的な効果があらわれ、これまでにない至高の排便がなされたのである。
「味も悪くないし、こんなことなら早く買っておけばよかったな」
 オレがその効果に次いで驚いたのが味だった。舌触りなめらかで、やさしく、それでいて混ぜ物のない純粋なヨーグルトの酸味。さっぱりとした後味でありながらしっかりと余韻の残る、深い味わい。甘味についての認識を改めなければと考えてしまったほどだ。
 ともあれオレは開放的な休日を過ごし、やがて夜を迎えた。
「スッキリした、とはいえ十日もそのままだったからな、一度ですべて解消されたとは考えにくい」
 オレは夕食後にまたヨーグルトを手にとると、あっという間にふたつ食べてしまった。
 ん?
「しまった、美味すぎて……!」
 テーブルの上には、間違いなく空のカップがふたつ転がっている。
「……まあ、即座に異常をきたすものでもないだろう。ヨーグルトだし」 週明けから、ようやく悩みなく仕事に打ち込める。オレはもう、そのことで胸がいっぱいになっていた。

「腹が……腹が痛い……!!」
 月曜の朝。オレはトイレで悶絶していた。
 ヨーグルトによってもたらされた強烈な便意は荒波となって腸内を駆け巡り、全てのものを洗い流さんが如くオレに襲いかかってきたのだ。オレはトイレから動けないまま、もう既に十分以上が経過している。しかし痛みは一向に引く気配がない。このままでは遅刻だ。オレは気力を振り絞って便座から立ち上がると、早足に自宅を出た。急がなければ間に合わない。間に合わないのだ。次のトイレに。
 コンビニを次から次と経由しつつ、オレはギリギリで駅に着くことができた。ひとまず痛みも落ち着き安心――かと思いきや、甘かった。
「くッ、まさか、こんなところでッ!!」
 トイレに立ち寄り過ぎたせいで時間に余裕はなく、となるとホームまでの階段を駆け上がらなくてはならない。強烈な縦揺れがオレの腹を揺さぶる。それが終わって安堵するもつかの間、今度は電車の横揺れがオレのホルモンを掻き回し、着いた先で階段を駆け下りれば直下型のショックが緩んだ門扉に衝撃を与えた。
「クソッ……! クソがあああッッ!!」
 完全性もどこ吹く風、叫ばずにはいられない。慌てて駅のトイレに駆け込むオレ。しかし生きて腸に届いた乳酸菌は謀叛をやめるつもりはないらしく、オレを刺激し続ける。出るモノのほとんどが水になっても、痛みを伴う超蠕動は止まらない。
 それでも会社への遅刻はなんとか免れたが、時間の有効利用についても完璧なオレはあらかじめストレスが取り払われるのを見越して週末の時点で電話をかけまくり、大事な会議や会食などいくつもセッティングしてしまっていた。他人のスケジュールを埋めておきながら自分が欠席するわけにもいかない。迂闊に席も離れられない。
 日ごろ鍛えたポーカーフェイスでそのうちの一つをどうにかやり過ごして――いまだ、午前十時。緊張と苦悶の時間が、まだあと六時間も七時間も続くのか……!!
 そう思った刹那、ある三文字を伴った悪寒が体中を駆け巡り、オレは心から恐怖した。

 ! ! !

 ……。
 その後、オレがどうなったかは――ご想像にお任せしたい。
 残ったヨーグルトは食べられないまま闇に葬られた、とだけ明記しておく。

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