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気ままに生きてる話

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日常でふと考えたこととか、ちょっとした生き方めいた話とか。
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#生き方

継続可能なマイセルフ

 ここ最近は日常のアレやコレを色々書いているが、気の利いたネタってやつはね、だいたいにおいて無いんだ。ノンストック&ノープラン。記事の書き出しさえその日その時その前後になってみないと別段なんにも考えてない時の方が多い。  サラリーマン業に従事する時間が長ければまあ少々大目に見てほしい。守秘義務と社外秘にまみれた職の話なんて書けるのはほとんどが愚痴か、目を見張るほど良い事があった場合くらいだ。そして起こり得るイベントの多寡でいえば前者の方がたいてい多く、わざわざ時間を割いてまで

ネガティブ気分は燃えるごみ

 なんか前にこんなこと言ってた。  思想はともかくつぶやきの存在自体は忘れていた。過去のわりとどうでもよさげな記事をバンバン削除していく中で掘り起こしてきたものだが、基本的には今も昔も変わっちゃいない。人生で起こすだいたいのことは不安も心配もそれなりに付きまとう。慣れ具合でその度合いがちょっと変わってくるぐらいのものだ。100%良い結果、なんて誰にも保証できないしさ。  一世一代、一生に一度、はたまた生きるか死ぬか……といったものでなければ、そいつは結局『よくある不安』ぐ

ココロの持ちよう

 なんかこう、プラス思考まっしぐらでひたすら耳ざわりのいい言葉を並べ立てるポジティブ説教みたいなこともできないではないけれど、そういうのは他の人に任せて、ここではもうちょっとゆるやかに、のんびりと構えて話をしたいと思っている。泰然自若。  人生それなりに辛く、それでいて月並みな不運不幸に見舞われてハムレットみたいな問答を繰り返した時期もあったわけだけど、ま、とりあえず何とかなってきたと言えるんだろう。今こうやって生きているし。  あきらめなければ何とかなる、とは究極のところ

いつまで青春を謳歌するか

 キラキラ輝く夢や希望、それを語る言葉。強烈で華美な刺激、燃えたぎる情熱。そういうものから一定の距離を置くようになったのは、いつからだったろう。  若いうちはそれでも良かった。それしか知らなかったと言い替えてもいい。理想とする未来に、どこまでも邁進していけると、誰もが信じていただろう。テレビの画面やニュース記事で取り上げられる仄暗いニュースは、自分にはそれほど関係ないと。  では、歳を重ねてみて、どうか。  自分の意思だけではどうにもできないことだってある。描いた理想に進む

心に熱を

 ここしばらく、のんびり、とか自分のペースで、といった生き方論をいくつか書いているけど……。  熱のこもった言葉、そういった態度、いわゆるアツい気持ち、というのがキライなわけではない。ただ、あんまりしょっちゅう『アツさ』に触れてばかりいると、ちょっと疲れてしまう、というだけで。ああでも、暑苦しさというか、体育会系のノリは苦手かな。  無理せず自分のペースで、というのは大事なことではあるけれど、気持ちが穏やかになりすぎてしまうと、自覚のないまま緩やかに静けさの海に沈んでしまう

そいつは本当に小さいのかい

 ふとした喜び、楽しさ、うれしさ、やさしさ。日常の中でぽつぽつと出会うそれらを、人はよく『小さな幸せ』なんて言ったりする。  ちょっとした偶然、ちょっとした気遣い、ちょっとした巡り合わせ、などがもたらしてくれる、ちょっとした幸せ。気分をほんのり上向きにさせてくれる出来事。なるほどセンセーショナルな感動や悦楽をともなうものでないなら、確かに『大きな』幸せではないのかもしれない。  けれど、それらのちょっとした幸せを感じるために用意された『現実』という舞台は、実に繊細かつ緻密に

この道わが旅

 いつでも夢を追っている。漠然と夢見ていただけの時期が長かったのだけは残念というばかりだが、ようやく、きちんと形に残るものも出来た。肩書も言ったモン勝ちだ。私はよりよい私としてこれからも生きていく。  ただ。ここまで、一度も心揺らがずいたかといえば、そういうわけでもない。安定した職から得られる安定した生活、退屈な忙しさの中でささやかな愉しみをちびちび味わいながら過ぎてゆく普通の日常、仲間内でほんのりと輝くくらいの力はある自分――そういったものを手放してしまう、となったときには

炎のさだめ

 新たに誰かと出会ったり知り合ったりしたとき、ついついその人と自分との共通点を探しがち、のように思う。仲をより深めたい時などには有効で手早い方法だし、趣味・嗜好が合致すれば仲間意識や連帯感も生まれやすいだろう。  また多くの人が日常的に各種『占い』に触れているせいか、血液型や生年月日などに関連性を見出そうとする人もいる。それはそれで話題にもなるし、同じだとか近いとかいうだけでその人を理解したような……は言い過ぎとしても、理解し易くなったような、距離が近づいたような気分にはなれ

どこまでもプレイヤー

 精神、魂、霊、神などなど……ここ最近はだいたい『スピリチュアル』のひと言で片付けられている気がするそれらが、そんなにキライではない。前にもちょっと書いたかもしれないが、人生に迷っていた時は、それまでの自分になかった考え方や心の在りように大いに救われたし、傾倒していた、とも思う。  そういった種類の思想に触れていく中で、自分の肉体であるとか、物質世界そのものにすがって生きることが、なんとなく『悪』というか、そこまで言わずとも『愚か』であるとか、本来の自分(たち)は、此処にはな