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母は友達なんかじゃない

「友達のようなお母さん」という呼び方があまり好きではない。
どれほど仲が良かったとしても、産み育てた側と育てられた側であるという関係にある以上、友達と同じような付き合いなんてできないだろうと思うからだ(もちろん、人として尊重し合うことはできると思う)。

わたしは母親と仲が良い。
趣味嗜好、対人関係の考え方、笑いのツボなどがとてもよく似ているので、話が尽きることはないし、しょうもないことでいつまでも爆笑していられる。それこそ一般的に言う「友達みたいなお母さん」なのかもしれないし、周囲の友人たちに仲良いよね、と言われることもしょっちゅうだ。わたしがある程度歳を重ねてからは、そう思える機会がますます多くなった。

ところが、つい先ほど、本当に久しぶりに母と口論になった。
原因となったのは、もうどう考えても全面的にわたしが悪く、記載するのも情けないような話なのであえて伏せておく。

ごもっともな母の小言を最初はしおらしく聞いていたのだが、ところどころで引っかかる物言いがあることに気がついた。語弊があるというか、どうも論点のずれたことを言われている部分が気にかかって仕方ない。
怒られているのだから黙ってうなだれていれば良いものを、そこで我慢できないのがわたしの悪い癖だ。つい口を開いた。

「いや、それはほんまにわたしが悪かったし、これからはちゃんと直そうと思うんやけどさ……その言い方はちょっと語弊があるんじゃない? こういうけどあのときはこうしてたし、そもそも今してる話は〇〇であって、なんで△△のこととごっちゃにしてくるん?」

感情を抑えた口調で、丁寧に言葉を選び、できるだけゆっくりと話したつもりだった。が、当然ながら、そう言い返されておもしろいわけもないだろう。そこから口論になった。

全面的に悪いのは自分であるという圧倒的に不利な条件ながらも、おかしいと感じた部分に関してはどうしても譲ることができず、何度でも言葉を組み替えて言い募った。
それが、はたして人として正しいことなのかどうかわからない(もちろん誰にでもするわけではないけれど)。しかし母に対しては、誤解されたままでいたくない、本当の気持ちをわかってほしいという思いが、その葛藤をもはるかに上回っていた。

「……言葉では、あなたには勝てんわ。」
呟くように吐き出されたその言葉は、さすがに心外だった。

「わたしは何も論破しようとしてるわけじゃないし、それらしい言葉で言いくるめようとしてるわけでもない。ただ思ったことを正しく伝えようとしてるだけやのに。小賢しく見える? 腹が立つ?」
努めて冷静に、ゆっくりとそう言いながら、ああこういうところが多分だめなんだろうなとうっすら思う。

「腹が立つわけじゃない。ただ、相手を慮る気持ちが足りてないなと思うだけ。
……いいんじゃない、それがあなたなんやし。」
投げやるようにそう言われたとき、涙が出た。

かなしかった。
よりによって言葉かよと思う。わたし自身の行いを責められる分には弁明の余地などなかったし、それだけならまだ良かったと思う。なのに、よりによって言葉かよ。言葉で心を動かしたいが聞いて呆れる。

感情的になってしまいそうな状態であることを自覚し、そのうえで客観的にまちがいのない言葉を選んだ、つもりだった。攻撃的な物言いは避けた、つもりだった。それでもなお、言葉ではあなたに勝てないと、話した内容ではなく言葉の部分に指をさしてそう言われると、もうどうしていいのかわからない。

じゃあ黙ってしおらしくしていれば良かったのと訊くと、そんな猫かぶりはやめてくれと言う、じゃあどうしたら良かったの。そんなふうに考えてしまうことが、まさに「それがあなたなんだから」でしょうか。決していい意味で言われたわけではなかったけれど。

見つめあうとにらみ合うの間くらいの強さで、わたしたちはじっとお互いの目を見ていた。母の目も潤んでいることを、気づかないわけにはいかなかった。

散々言い古されていることだが、本当に母娘ほどやっかいな関係はないと思う。
父と娘、母と息子の関係とは全くの別物だ。同性であるがゆえの対立、似ているからこその憎しみに近い感情が、そこにはどうしようもなく在る。

ただ、やっかいなのは対立することや憎しみあうことそのものではない。その根底で、どうしようもないほど互いを愛してしまっていることだ。
どんなに腹が立とうとも、どんなに分かり合えないと嘆いても、そのずっと奥底で相手を深く愛していることに気づく。だから余計に苦しかった。何があっても好きだし大切に想い続けるのだろうと思う、そして母も同じように自分のことを想っているのだろうという確信が、今は苦しい。

いっそ二度と干渉しないでくれと喉元まで出かかった言葉は、やはりぶつけなくて良かったと思う。
しかし、はやく金銭的にも精神的にも自立して、本当の意味でひとりで生きられるようになりたいと、同じくらいの強さで思う。

実家暮らしの大学生であるわたしは、成人しているとはいえ、まだまだ親の庇護下にある。まもられている。日々ありがたく思うと同時に、その現実を疎ましく感じてしまうのはこういうときだ。
ひとりの人間として、対等に渡り合う覚悟はもうできているか? できているならば、そのために必要なことを、これから一つひとつクリアしていくしかないのだ。

「友達みたい」じゃなくていい。ただ、別々の人生を歩む人間として、尊重しあえる関係でありたい。対等だと胸を張って言える、そんな大人になりたいと、切に願うばかりである。


#エッセイ #家族 #母親 #母娘

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