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花束みたいじゃなかったとしても

この世の人間を、感性を軸にして大きく二つに分けるならば、わたしと恋人はおそらく違うほうに属すると思う。

彼は小説やエッセイをほとんど読まないし、わたしの愛する“生”っぽい映画(『愛がなんだ』『ラ・ラ・ランド』『ここは退屈迎えに来て』など)もおそらく解さず、好まない。
作品の世界観にあてられて、その後の数時間をぼんやりと過ごすようなことも彼にはない。

また、恋人がこよなく愛する史実や建築物にわたしは興味がないし、彼が口癖のように使う「エモい」という言葉はあまり好きではない。
それが良いとか悪いとかではなくて、ただ圧倒的に違うのだという事実がそこにある。

そのため、言語化しづらいひりひりした気持ちや感傷を同じ温度で共有できたことは、ほとんどないといってもいい。
だから自然と、そのようなコンテンツを一緒に鑑賞することをわたしは避けるようになった。

とはいえ、そのせいで彼に対する愛情が極端に目減りすることはない。
感性を分かちあえる相手は他にたくさんいるし、恋愛において(カルチャー面での)感性を分かちあうことを必須事項としていないからだ。

恋人と一緒に楽しむことを目的とするならば、わかりやすいエンタメ作品やヒットチャートを選べば良い、と考えるようになった。
そのほかの似ているところや補い合える箇所、相手の尊敬できる部分が、感性の違いを埋めてくれるくらいあるからこそ、今のわたしたちは恋愛関係を良好に保てているのだと思う。

そうやって、はじめから違うほうに属する前提で交際を始めたならば、『花束みたいな恋をした』の二人のような結末に至ることはないのだろうか。



※以下、映画『花束みたいな恋をした』のネタバレを含みます。


文学や映画、音楽などの趣味が合うことをきっかけに意気投合して交際を始めた絹と麦だが、生活習慣の変化からだんだんすれ違うようになり、最終的に別れを選ぶことになる。

学生時代、立て続けに圧迫面接を受けた絹に対して「日本の就活のシステムはおかしい」と憤った麦だったが、自身のイラストレーターの夢を保留し一般企業へ就職したことを経て一変、イベント制作会社への転職を決めた絹に対して「好きなことを仕事に、なんていうのは遊びだ」と吐き捨てるようになる。

仕事に忙殺される麦は、かつて二人で語り合った作家の新作や漫画の新刊も追わなくなり、すでにチケットを取っていた芝居よりも急な出張を優先し、次第に二人の間には性交渉も、会話すらもなくなってゆく。



恋が始まるときの高揚から、徐々に歯車が噛み合わなくなるまでの変遷、別れ話の最中に交際当初のことを思い返すさまの描かれかたがあまりにも生々しくて痛くて、終始たまらない気持ちにさせられる映画だった。

心が動くと身体が熱くなる。
ニットの背中がじんわりと汗ばみ、喉の奥がかっと燃えるようになっているのを感じていた。ずいぶんとひさしぶりの感覚だった。

急いで家を出たせいで、ハンカチもティッシュも忘れてきてしまっていた。スクリーンの入り口でくすねた消毒用のペーパータオルを小さく折りたたみ、マスクの内側を削るようにぬぐう。
身も心も苦しかった。ああきついなあと思いながら、二人のことをじっと見ていた。



わたしは、この先恋人と別れる選択もじゅうぶんにあり得るのだという覚悟を決めて、東京を離れ関西で同棲することを決めた。
しかし、当然ながら「別れるかもしれない」と空想することと実際に別れることは、まったくの別物なのだった。

「別れよう、で別れられるのは交際半年未満のカップルだけだ」というセリフが劇中にも出てきたように、共有した時間や感情や場所や食べ物や作品があまりにも多すぎるのだ。

加えて同棲もしているから、家具を分けたり転居先を探したりといった身辺の雑事も多い。
身に余るくらい祝福してくれた周りの人たちへの報告も気が重い。リセットなんてできるわけがない。

“すべての始まりは終わりの始まり”。
始めるからには、終わったあとの自分の感情の後始末まで引き受ける覚悟が必要なのだということを思い出した。
“恋はパーティーみたいなものだから、渦中にいるときに楽しいのは当たり前”。じゃあ、終盤に差し掛かってしまったら?

「終わらせないように努力する」という表現の仕方になんとなく違和感をおぼえてしまうのは、わたしだけだろうか。
別れ話を切り出した絹に対して麦は「恋愛感情はいずれなくなるもの。でも家族ならうまくいくのではないか。結婚しよう」と食い下がる。
 
お互いが100パーセントの自然体でぶつかっていつまでも幸せに暮らしましたとさ、が夢物語なことくらいわかる。
でも、だからといって自分を偽り相手の変化は見ないふりをして続ける関係なんて、はたして幸せなわけがない。

自然体が噛み合わなくなってしまったから、惹かれあった頃の感情が見えなくなってしまったから、という理由で別れを選んだ二人の決断が正しいのかどうかはわからないけれど、少なくとも自分たちに誠実だとわたしは感じた。



わたしと恋人はこの作品みたいなきっかけで交際を始めたわけではないけれど、きっかけなんて多分そんなに重要なことではないのだろう。

相手の好きだと感じていた部分が時間と共に薄れたりひっくり返ったりすることで、おそらく今後、作中で描かれていたような分岐点はわたしたちにもたくさん訪れる。

そのとき自分がどんな選択をするのか今はまだわからないけれど、迷ったらきっと、この二人のことが頭をよぎるのだろうと思う。



観賞後、お手洗いの順番を待っていると、後ろに並んだ二人組の会話が聞こえてきた。

「かすみちゃん、めっちゃかわいかったよなー」「あとイラストがかわいかった!」「最後の音楽もたのしかったな」。

映画の内容には一切ふれないまま続くやりとりを耳にして鼻白む自分を、つい劇中の二人に重ねてしまう。

また、それがいかに特別ではない感性なのかを目の当たりにしたばかりだったので、無意識に生まれてくる優越感のようなものが恥ずかしくて押し殺そうとしていると、今度はそのこと自体も自意識過剰に思えてくるなど、感情が入り乱れて大変だった。

好きなもの、良いと思ったものを振りかざしてセンスを誇示するようなみっともない真似は絶対によしたいのだ。
他人の作品でステータスを固めて自分の手柄かのように錯覚したり、同じものに心を動かされるかどうかだけで人を選別したりするような人間にはなりたくない。少しでも油断すると安易に傾きかけるので気をつけていたい。

とはいえ、エンドロールが終わるや否やこう言い放った右隣の女の子のことは、多少不自然になっても顔を確認せずにいられなかった。

「はー、新しかったあ。なんか深そうな話やったね」。

何を隠そうこの彼女、上映中にこそこそ喋るわ、恋人とおぼしき隣の男性に膝枕をしそうな勢いで何度もしなだれかかるわ、退屈そうにあくびをするわ、スマホで時間を確認するわでマナーもへったくれもない奴だったのだ。

こんなとき、麦や絹が隣にいたら一緒に悪態をつけただろうな、などと思ったりした。



映画館を出たあと、今の気持ちを上書きするのがもったいなくて誰とも話したくなくて、ふらふらと街をさまよった末、ひとりでファミリーレストランに入ってドリンクバーを注文し、このエッセイをしたためてみた。

作品に酔いたがりで浸りたがりのわたしだけれど、ファッションとしてではなく、本当に自分が好きなものは何なのかということにも改めて向き合っていきたい、と映画を通して思わされた。

とりあえず今日再認識できたのは、心が動く作品に出会えたとき、ものすごく生きている心地がするのだということ。そんな経験をこれからも重ねていきたいし、本当の言葉で自分の気持ちを残しておきたいのだということ。

そして、今の恋をこれからも大切にしてみたいということだ。たとえこの映画のように、花束みたいじゃなかったとしても。

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