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そして、父になれますか?

父の日。

子を持たないわたしは、実年齢や社会的な立ち位置をうっかり忘れがち。

ニュース番組の街頭インタビューで親子として取り上げられている方たちの親側の年齢が自分と同じくらいだったり、自分よりも若かったりすることに、慌てることもしばしば。

自身の父も今のわたしの年齢で、あっという間にこの世を去ってしまったから、父の日は他人事なイベント、歳時記。

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仕事が立て込んできて、今までとは違って在宅でもガッツリ集中せざるを得なくなってきて、PCに向かうのが、視力的にも気持ち的にもなんだか億劫になっている最近。SNSもさらっとは眺めるけれども、心が動くことは少なく、今までだったらコメントを寄せたくなるレベルの内容に、ようやくかろうじて「超いいね!」をポチる感じ。

今日、友人が久しぶりにSNSに投稿をしていた。父の日ネタで。

その友人は夫婦2人暮らしで、昨年お父様を亡くされた。今まで彼女にとっての父の日は、実の父親、義理の父親へ贈り物をし感謝の気持ちを伝えるタイミングだったけれども、今年は伝える相手が1人いなくなってしまった。何気ない日常で、今まで当たり前だったイベントに不意に不在を突き付けられると、寂しいよね。

この友人夫婦は自分たちのこどもを持つことが叶わなかった。コロナのこともあってもう随分と前になってしまうけど、会えていた時には不妊治療の話をぽつぽつと聞いた時期もあった。夫側から主に聞いていた。わたしは聞いた話から、妻へ心を砕いていた。

今日、お風呂に入っていてふと思った。

あいつは、どう思っていたんだろうか。

本当にこどもが欲しいと、どれくらいの熱量で思っていたんだろう。
治療中の禁酒や禁煙も真面目に取り組んでいた。
そもそも、ふざけた感じを全面に出しつつも、超真面目でバランスをとるタイプ。亭主関白な面もあって意外と保守派。
どんなふうに思っていたんだろう。

わたしは、自分と同じような身体をしくみを持つ、妻側には無条件に心を砕いていた。でも、夫側については、妻よりも付き合いの長い友人関係にもかかわらず、なんだか妻側に自動的に寄り添うのと同時に、自動的に距離を置いてしまった気がする。そんなことに急に今日、気づいた。

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母親は自身の身体の中で胎児を育て、自身の身体から切り離し、この世の中に新しい個体を送りだす。

母と子の関係は、ゆるぎなく、親子だ。
生み出した母親だけは、真実を知っている。

でも。

父ってどうだろう。

「妊娠したの。あなたの子よ」と告げられ、そうなのかと受け入れる。
妻のお腹が大きくなり、鼓動なんかを聞いて生命の不思議を感じ、過ごしているうちに、あるとき、目のまえに差し出される。
「はい、お父さんですよー」って。

自分が男性だったとしたら、自覚なんかグラグラだろうな。
どこまで自分のこどもと信じられるだろうか。
ある程度育ってきて、顔のつくりや身体のパーツに自分のコピーを見つけられたら、ああ、自分の血を分けたこどもなのか、とようやく思えるだろうか。

そう思ったら、世の中の男性が「父親」を引き受ける覚悟って、なかなかすごいものだと思えてきた。

なんの実感も、確証もないまま「父親」にさせられるのだ。

「そして父になる」という映画がある。

これは病院での取り違いが発覚した2つの家族の話だけど、そもそも、男性が「父」の自覚と自信を持つことって、どうなんだろう。

「父」を引き受けて、「父」になる。

ここ数年、家族のありかた、男性・女性の役割についての議論が今までになく過敏で熱いように見受けられる。
女性をもっと自由に、という声が大きいような気がしているけど、何の痛みや自覚もなく、父親たる・・・を教えられるでもなく、「父」を引き受けている男性のことを想像すると、男性の不自由さ・理不尽さみたいなものを感じてしまった。


お父さん、ありがとう。

世の中の「おとうさん」、おつかれさまです!


ちょっとおいしいおやつが食べたい。楽しい一杯が飲みたい。心が動く景色を見たい。誰かのお話を聞きたい。いつかあなたのお話も聞かせてください。