見出し画像

40代女子が「死」について考え始めた

いきなり暗いタイトルですみません。その前に「40代で女子ってどうなの?」という苦情は受け付けません!「女」って言うとなんか生々しい感じがするし「女性」って言うと自分を丁寧に表現しようとするむず痒さがあるし「女子」くらいの単語が収まりがよい感じがするので。

特に大きなきっかけはないのですが40歳を過ぎたあたりから漠然と「死」について考えるようになりました。人生100年時代と言われますが私の世代だと平均寿命が80歳前後なので人生80年を採用しています(自分の中で)そう考えると40歳は人生中間地点なわけです。同世代とも「人生折返しだね~」という話が浮かんできたので「ああ、そうなんだな」と実感もある。

ありがたいことに今現在は私も夫も健康体です。義母は数年前に他界しましたが義父は健在。私の両親も持病こそあれ元気に暮らしています。なので特に死を実感することは日常生活ではありません。けれど人間はいつか必ず死ぬわけです。人間にとっての「絶対」は2つあってそれは「人は絶対ウソをつく」ということと「人は絶対いつか死ぬ」ということ。

「死」に対して頭では分かっていてもなかなかリアリティが持てない。それはありがたいことだけれどもさすがにこの年になって何も考えずに過ごすのもいかがなものか、と思うようになりました。死が恐怖や悲しみだけの存在ならばそこに向かって生きていくことって不毛じゃないのー?と。

話が飛びますが中学生くらいの時はRPGが好きで遊んでいました。その時代のゲームって必ず終わりがありました。ラスボスを倒してクリア!という明確さがあった。最近私は全くゲームはやりませんが旦那さんはソシャゲをやります。チラ見すると何年も同じタイトルで遊んでいます。職場のソシャゲで遊ぶ人にも聞いてみたところ永遠に続くと言われました。(聞きかじりなのですが。タイトルにもよるのかな?)それって面白いの???と思ってしまいます。流行っているのだから面白いのでしょうけれど。

物事は終りがあるからこそ良いのだと思っています。ソシャゲ好きな人に言わせると、終わらせたくないんだよーらしいです。終わるのが寂しい。私にはちょっと分からない。確かに終わりって寂しさがあるものです。でもその寂しさも込みで楽しむものなんじゃないのかな?と。達成感と一抹の寂しさ。あと終わりが見えないものって取り組み方がグズグズになる。終わりが決められているからそこまでの道のりをじっくり踏みしめようと思える。永遠に歩けと言われたら頭も身体もむやみに使わずいかに楽をするかを考えるけど、終わることが決まっているのなら多少無理をしてでも道のりそのものをいかに充実させるかを考え始める。

「死」を意識するようになったことは自分にとってネガティブなことではありません。そんなものを意識せず目の前のことだけに夢中になれた若かりし頃もあったしそれはそれで充実していた時期でした。けれど「死」を意識できるようになった事は自分が少しは成熟してきてるんじゃないかなーと思える事でもあります。漠然とした「死」に対する不安や恐怖に翻弄されるのではなく頭の片隅のさらに隅っこに「いつか私の人生も終わる時が来るからその時にまぁ悪くない人生だったかな!と感じて終えたいと言う目標」を住まわせておく事でこれからはさらに人生を深く味わっていけるのではないかと。

これからも困難はあるし悲しいことは起きるし時にはやってられねー!といい年してふてくされることもあるでしょうけど、その頭の片隅のさらに隅っこにある小さな目標が、余裕を生み出してくれるちょっとしたお守りになってくれると思えるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?