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反出生主義について

先日ABEMA TVを見て、反出生主義という言葉を知った。

文字通り出生に対して否定的な主義・思想らしい。

なぜ否定的なのか?

それは、生まれてきて「幸福な人生だった!」と死んでく人もいれば、「なんて自分は不幸なんだろう」と嘆き悲しみ苦痛を感じながら死んでいく人もいる。

また、反出生主義の擁護者である、ドイツの哲学者ショーペンハウアーは「人生は苦しみの方が多い」と主張している。

つまり、反出生主義は

生きることで発生する、”苦痛”を回避するために「産まなければいい」と、生む権利を否定しているのである。

なるほど、そもそも生まれなければ、幸福も感じないが、苦しみも発生しない。ある意味「平等」の究極形態の1つかもしれない。

ここで、誤解してほしくないのが、この主義・思想は自殺の推奨や生きる事自体を否定するものではないということ。

既に生まれてしまった人に対して、苦痛の回避を呼びかけているわけではないのである。

故に、この主義・思想を否定することはかなり難しい。

現在、地球には気候変動や格差、食糧危機、水不足など、大きな課題が山積みだ。

間違いなく、厳しい戦いになるし、苦痛を伴う可能性は高い。そんな時代だからこそ、この反出生主義に注目が集まっているのだろう。

ここからは、自分の持論だが、主義・思想というものの力は絶大であると感じている。大小はあるが、現在の金融資本主義もその1つである。

本来現実はあるがままにしか存在しない。それをどう捉えるのかはその人次第である。その価値判断のものさしになるのが主義・思想である。

身近な例で言うと、「お洒落な人」「ダサい人」という世間一般の共通認識があって、初めて、人はお洒落な服を買う判断ができる。全員が「お洒落な人」だとそれはただの「普通の人」になってしまう。

かたい話でいくと、資本主義の「市場原理主義はは正義」であるという考え方や、社会主義の「公的なセクターこそが重要だ」という見方があってこそ、両者の利点をいいとこ取りする社会を発想することができる。

つまり、人間は相対的にしか、価値を測れず、本当の今で無から有は生まれないのだ。
その点を踏まえると、特定の主義・思想という対象があってはじめて、その考えに啓蒙・啓発ができる。歴史を振り返っても、そうして、社会は少しずつ進歩し「平等」「自由」「人権」を勝ち取った。

もし、価値判断のものさしが無いとすれば、それはある意味、「究極に自由な世界」で、J・Pサルトルのいう「絶望」に人間は直面する。

そうならないために、人間は自らの人生に価値を自分で与えなければいけない。その価値を作る際に主義・思想が役立つのである。

今の時代は、金融資本主義社会から、次の社会に移行する過渡期にあると考えている。だからこそ、多様な価値観・考え方がたくさんあり、故に人は何を信じるかに迷い生きることが困難になっていると感じる。

何を信じるかは自由。「お金もちになりたい」「愛のある人になりたい」「自由な時間がある人生を送りたい」など ※極端な例ですみません

そういった、個人の価値観の集合体が共通認識となり、社会を形作っていく。

重複するが、今は主義・思想の過渡期であると考えているので、様々な考え方が濁流のように押し寄せてきている。

自分はその濁流に溺れないように、客観的に考え、自分だけの人生の価値や価値観を追求していきたいと思う。

また、他の人にも自分だけの価値観があると思うので、それを尊重し、理解しようとする姿勢は貫いていきたい。




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