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型って何のためにあるんでしょう?

型通り、型破りなんて言葉がある。大抵は、型を否定する意味で使われる。型通りことをやっていてはだめだとか、型破りな人だけれども世の中に与える影響は大きいとか。

でも、そもそも型通りにできない人が、型破りなんかできるわけないんだ。「守」「破」「離」という言葉がある。

剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。
「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。
「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。
「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

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まずしっかり、型やフォーマットでそのことを理解した上での我流が大事。まずは型やフォーマット通りやってみて、それから足すもの足したり、変化させるところはアレンジしたりしていく。その中でまた新たな学びが生じる。

スポーツ、勉強、仕事。何でもそうだ。
野球がうまくなりたいと思ったら、まずは他の人がしているような型通りの練習をしてみる。基礎体力作り、基本的な練習、そういうことをしっかりしてからなら、オリジナルの練習方法が編み出せる。

ちなみに、私の授業で使っている論文の型はこれ。この話はまた今度。

私の講座で使う文章の型

型に自分をはめてみると、足りないところ、はみ出してるところが自覚できる。とりあえず足りないところをまず補ってみる。そして、はみ出しているところも削っていく。でもここは、要注意。はみ出しているところは、もしかしたらオリジナリティとか長所とかメリットかもしれないから。でも型にはめないと、何がはみ出しているか気づかないんだけどね。とりあえず気をつけながら型に合わせて凹ませる。そうすると自分のオリジナリティの強さに気づく。どうにも我慢できず、はみ出しているところ、それは、逆にめっちゃ大事にしなくてはいけないことなのかもしれない。でもでも、もしかして逆に無駄なことかもしれないよね。それは型に当てはめてみて初めて気がつくことだ。
そして、まったくやっていないところも出てくる。上の例で言うと、04の「予想される反対意見とそれに対する反論」部分とか。ここを通過しないと、02の結論と05の結論が同じになってしまう(笑) 小学生の作文によくみられる現象だけど、大人にも時々いる。一度反対者の立場に立つことで、05の結論が深まる経験を、型を通じてすることが大事。

逆に言うと、基本メニューや基本の型を考える側の人間は、それで必要十分なものにしなくてはいけない。型を時代に合わせる作業も同じだ。何が今の時代に合わないのか、足りないのか、型を提供する側もちゃんと考えなくちゃいけない。

たとえばアンケートフォーム。アンケートの項目は、それが必要十分なものであるかどうか、よく吟味してから作り始めなければいけない。世の中の一般的なアンケートがこんな項目だから、うちの場合もそれでいいよ、じゃだめなんだ。目的に必要で、目的に十分なものにしなくちゃいけない。なんでもかんでも「住所」「氏名」「年齢」「職業」「電話番号」を記入させればいいってもんじゃない。状況によっては住所が不要のアンケート、最近では氏名が不要のものさえあるんだから。

唯一、芸術だけは別。型なんかにはめちゃだめだ。

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