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16年もかけて学校で習うことは、AIに抜かれているから、もう習わなくていい

私は、音声配信の『VOOX』愛用者。先日、孫泰蔵さんの『冒険の書』に関するインタビューがあり、その中で孫さんが衝撃的な発言をしていた。

今、学校で学んだり習得したりしているような能力が、全部AIによって置き替えられてしまう。みすみすAIに置き換えられてしまうスキルを、十何年もかけて、学校で教育してるっていうのは、本当にみんなにとって不幸だ

VOXXより

詳しいお話はご本人の声でどうぞ。

教育者として震える手で購入

私のしている「教育」は、本気で軌道修正しなくてはいけないと強く感じた。方向性は多分、誤っていない。思いが同じだからだ。でも、このままじゃいけない。

本の感想というよりも、現時点での私の思っている教育の意味の発言をしたいと思う。

学びとは、本来わくわくが止まらない、興味の尽きないもの。小さい子供はその衝動で生きている。土に触れてみたり、花や虫を触ってみたり、跳んだ理跳ねたり転んだり。身体的な経験を中心にして、なぜそうなってるのかというメカニズムについては気にしない。ただ、気になったことは、とことん、なぜどうしてと親に聞いていたはず。その時には、自分に興味があることしか質問しなかったはずだ。

ところが6歳になって学校に行くようになると、興味を持っていないことでも勉強することになる。私もそうだったし、皆さんもそうだっただろう。そして、今の子ども達もそうだ。

私は過去に興味がないので、歴史が嫌いだった。英語も、これからの社会で必要だからという理由で一生懸命勉強したけど、何かを覚えるということが嫌いな私は、英語は本当に苦手だった。だいたい、使わない言語をこんなに勉強して、何になるんだろうと思った。将来の為、将来の為と言うが、本当にそんな時代は来るのか?物理も化学もそうだ。

学校で英語を勉強しておいてよかったな!って思ったことは、一度もない。英語が本当に話せるようになったのは、25歳でカナダ人の友人ができたからだし、もっと話せるようになったのは、29歳でアメリカに住んだからだ。中学校から大学まで英語を勉強をしたが、それで話せるようになったとは1ミリも思っていない。死ぬほど勉強した文法も、1つも覚えていなくても、友だちと話すことで、1から勉強できた。友だちと仲良くなるためには、共通の言語が必要だった。これが本当の勉強だ。
でも、今はそれさえも不要。スマホがペラペラと翻訳してくれて、相手も自分も相手の言語に寄り添わなくてもいい。

大好きだった数学でさえそうだ。数学が大好きだったのは、得意だったからだけだ。得意なら好きになる。何でもそうだ。ちなみに、数学が得意だったのは、数学は技術だったから。練習問題で解き方を練習したら、練習していない子よりできるようになる。すごくシンプルな理由だ。別にセンスなんてなくていい。その証拠に、今も数学的センスは皆無。でも、共通テストでは満点だった。練習したからだ。それだけ。そして、もう1問も解けない。なぜなら、入学試験以来、数学の問題を解いていないからだ。

物理も化学も死ぬほど頑張ったけど、成績は伸びなかったし、学校のあの物理や化学の勉強が、今の人生で役に立ってるかと言うと、ほぼそんなことはない。というか、6年もかけて勉強した、物理や化学の知識を活かすチャンスは、57年生きてきて、一度もなかった。

その苦痛の時間に、当時、自分の興味のあったことをとことん勉強する時間があったら、どんなに楽しい学校生活だっただろう。それが将来役に立つとか、お金になるとか、そんなことは置いておいて。何の仕事でもそうだけど、それは結果論だから。

私たちの時代でさえ、そうなんだから、AIが発達が凄まじい現在、学校で学習することって、本当に生きていく上で役に立つんだろうか。「いつか役に立つかも」と思って子供たちを頑張らせていいんだろうか。私たちと同じ苦労を、同じむなしさを、子供たちに体験させていいんだろうか。

大学受験のための高校受験
高校受験のための中学受験
中学受験のための小学受験
小学受験のための幼稚園受験
幼稚園受験のための英才教育
英才教育のための胎児教育
……もう、終わりにしない?

学校がなくなればいいと言ってるわけではない。ただ、学校は、あまりに変化しなさすぎではないか?
講義型の授業が減り、アクティブラーニングや、主体的な学びという名前に変わりつつあるし、プログラミングも始まったし、なんとなく時代に沿ってるような感じがするけど、根本的なところは、1ミリも変わっていない。

答えがある問題をたくさん練習させて、その答えに「正しく」「早く」到達する訓練を、16年以上、させてる

でも考えてもみてほしい。それって丸々AIにできることじゃないかな。しかも人間より「正しく」「早く」

学校教育でというか、子どもの教育で、ほとんどの教科は習わなくて良くなる。国語も算数も理科も社会も英語も。でも、学びの基礎を習得することは大事だと思った。つまり「勉強の仕方」と「それに必要なツール」(具体的には「言葉」と「計算」)これらは、早い段階で学校で教える。つまり大学の教養課程に当たるものを、3年間ぐらい教える。あとの13年間は、もう好きなことが選べるように、そのまま稼げるようなら稼いじゃうし、遊んじゃってもいいみたいにする。もちろん、色々なチャンスは必要だから、一度選んだらそれで終わりじゃなくて、興味が移ったら受ける講座も変わるようにしたらいいね。そう、大学の専門課程のようになったらいいんじゃないかな。

そうは言っても、さすがに日本の教育は、この先10年や20年じゃ変わらないだろうから、私は私にできることをするけど。それだけだけど。

私はやっぱり、こんな時代に子供たちに必要な力は、自分の意見を持つことと、それを表現すること。そう信じて、今日も子供たちに意見文を教えます。

本も書いてます。読んでみてね♪

終わりに
孫さんの本の最初に、このように書いてあります。この本の感想は世の中に共有されるべきことのように思うので、お言葉に甘えて、じゃんじゃか共有していこうと思います。

本編に入る前に、一つだけ申し上げておきたいことがあります。もし「ああ、自分もそう思ったんだよね!」と思い、自分の考えを表現するのにちょうどいいところがあれば、いくらでも引用して使ってかまいません。僕の許可を得る必要はありません。
なぜなら、僕のこの文章も誰かのものをどこかからどこかから私淑してきたものばかりだからです。もちろん、現代の著作権法の考え方をクリアするために、うまく自分の言葉に書きかえてはいますが。だからと言って自分のオリジナルの論だという気はさらさらありません。大事なのは、考えや情報が共有されることなのですから。

『冒険の書』より


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