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東京都美術館「イサム・ノグチ 発見の道」展にて

2021/06/18 金曜日

出勤する道すがら、新宿駅を新宿三丁目へと向かう地下通路で、ほぼ毎日この展示のポスターを見かけていた。もちろん、イサム・ノグチについては彫刻家であるという知識はあったものの、正直なところ彼の作品を体験したことがなかった私には、いまいち彼がどういったアーティストなのかを理解できずにいた。彫刻という表現/存在は好んでいたものの、それを自分の中で消化するにはまだ至っていない部分があり、観ること自体に少し尻込みしていたというところもあるが、今回の展示を通して、少しだけ彫刻芸術との距離が縮まったように感じている。

今回が私のイサム・ノグチ初体験であり、それ故に長年のファンからすれば「当たり前だろう!」と突っ込まれそうな、率直であるが故に捻りのない単純な言葉遣いをすることにもなるだろうが、展示を観た私の今の雑感を記録する。

今展示は3章に分けた構成となっていたので、その通りに記していく。

第1章 彫刻の宇宙

序章であるこの部屋では、ノグチの1940年代から最晩年の1980年代にかけての彫刻作品の数々が、部屋中央部に飾られた「あかり」を取り囲むようにして展示されている。

ノグチのことを彫刻家として知らない人でも触れたことがあるのが「あかり」という照明シリーズではないだろうか。私自身、実はノグチを知ったきっかけは彫刻作品ではなく、インテリア雑誌に掲載されていたこの「あかり」だった。正直なことを言うと、私は今回実物を目の前に、重ねてノグチの「あかり」に対しての意図を知るまでは、一体この照明の何が特別なのだろうと思っていた。素人の私の目には、子供の図工作品のようにも見える、誰にでも作れそうな和紙の照明にしか見えなかったのだ。

ノグチはこの作品を「光そのものを彫刻する」というコンセプトを元に制作した。また展示会場で流れていたビデオの中では、自分の彫刻作品は一般の人には高くて買えないが、「あかり」であれば誰でも手にすることができる、それがいいと思っている、と語っていた。人間の意識というのは不思議なもので、そう言われて見てみると何か違ったものに見えてくるような気がしてくる。しかし私の感じていた「子供の図工作品のようにも見える」という感覚。実は私の中では、これはノグチ作品を観る上でとても重要なポイントだったのだと、このあと彫刻作品と向き合う中で気づくこととなる。点いたり消えたりする柔らかな「あかり」を起点に、私はノグチの世界の中へとさらに進んだ。

ノグチの彫刻をひと目見て、私はすぐにあるアーティストを思い出した。岡本太郎だ。多彩な色で表現する岡本太郎とミニマリズムの究極をいくノグチを重ねることは難しいと思うかもしれない。しかし二人にはある似た点がある。それは「フォームの描き方」だ。また作品に刻まれた「顔」が、どことなく似ている気がする。ここで先ほどの話に戻るわけだが、子供が単純な丸と線で描くような、そんなチャーミングで軽快な表情が二人の作品には見えるのだ(少なくとも私には)。彼らの作品に対する思想は深く宇宙的であるけれど、根本的に作り出しているものの中には、その深みを通り越したシンプリズムがある。何周もした最後にたどり着くのは、生命の始まりのたった一点という潔さだ。岡本は「子供」という言葉を含む作品をいくつも残し、また今展示で知ったがノグチもいつか子供のためのテーマパークを作りたいと思っていたというので、二人にはそうした共通点もある。子供の時分に感じていたことを、もしかするとふたりは失わないように気をつけて生きていたのかもしれない。そんなピュアさが作品の形として現れる時、無意識に似た何かが滲み出てしまうのかもしれない。

彫刻芸術に近づけるだろうか、しかもイサム・ノグチなんて難しいそう、なんてちょっとビクビクしていた私だが、実際にノグチの作品を目の前にした印象は、ノグチの作品は比較的わかりやすいということだった。もちろんこれは作者を馬鹿にしているわけでも、作者の意図を完璧に理解しているというわけでもない。作品を通してあくまで自分の中で自分のこととして解釈し易かったという意味である。いくつか写真と共に簡単な私の解釈をあげてみる(撮影許可があった作品)。

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これは「グレゴリー(偶像)」というタイトルを持つ作品だが、こちらを向いている中央の平面な板が、私にはまず顔に見えた(右上の丸い穴が目、顔の右側を向け横を向いている)。しかしその顔には力がなく、下に向けて伸びているのは顔が溶けているからだと思った。どろどろになり溶け落ちる顔のあちこちに槍のようなものが垂直方向からいくつも刺さっている。
「偶像」とはつまり神の姿を模した崇拝の対象像であるが、「偶像」「溶ける顔」「突き刺さる槍のようなもの」を照らし合わせた時、私には崇拝(祈る心)が力を失いそうな時、必死にそれを食い止めようとする人の心が見えた。「突き刺さる槍のようなもの」は現実に抵抗する心の葛藤であり、しかしここにはそんな細いものなどでは結局食い止めることなどできないのだ、というような皮肉も表わされているような気もした。もしくは信仰というものの頼りなさを表しているとも言えるかもしれない。

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「グレゴリー(偶像)」の隣に配されていたのがこちら、「幼年時代」だ。これは近づいて見ると分かるのだが、石の中央部だけがつるつるとした表面を残し、上下部分は細かな凸凹になっている。おそらくこれを見たほとんどの人がタイトルからして、子供の頭部を思うのではないだろうか。実際に私もそうだ。しかしそれだけでは面白くない。そこで、しばらくぐるぐると作品の周りを歩きじっくりと眺めてみた。
一般的には子供の頭(脳)はまだ皺も少なくつるつるしたものであり、大人になる毎に皺が増えて凸凹とした形を持つというような印象がある。しかし私がこの作品から感じたのは、実はそれは逆なのではないのか、ということだった。つるつるしたものは喉越しも良く、なんというか聞き分けがいいものとすると、凸凹したものは勝手も悪く、手が焼けるものだ。そう言うと凸凹した状態は悪いように聞こえるが、それはある意味自由な状態を保っているとも言える。人に合わせてつるつると肌触りの良さを与えることも人間世界では重要だが、それはどちらかというと、経験という学習により生み出される虚偽の姿である。人に合わせるのでなく、ザラザラとした肌触りで生きることは他人に混乱をもたらすけれど、それはもしかすると人が真に自分自身として最も自由に生きた時の姿なのではないだろうか。つまり、子供時代の凸凹から、大人になるにつれて私たちはつるつるしたものになってしまうのではないか。そんなことを考えていると、この作品の子供が今にも笑って暴れ出しそうで、自然と笑みが溢れた。その子供にノグチが重なるようで、私はしばし彼の幼少期を想像した。

ノグチの彫刻作品を見て思ったのは、少し「ロールシャッハ・テスト」に似ているなということだった。「ロールシャッハ・テスト」とは心理療法のひとつで、インクのシミが何に見えるかという答えを元に心理状態を解いていくというものだ。アート作品の場合タイトルが事前に付与されているのでその誘導を基に考えやすいけれど、それでも上記したものは全て私の勝手な想像であり、しかしそれは確かに私の心理状態を反映しているはずなのだ。アート作品は作り手の心の内を表し、そこに観者が達することができるのかというような一方向で考えられ易いが、観者側とてその作品の中に自分の心を反映させ作品を作る制作者となり得るのだ。というよりも、その作業なしでは特に現代芸術と呼ばれるものは面白さを失ってしまう。私にとってノグチの作品はその点作業がしやすく、波長が合っているということかもしれない。

第2章 かろみの世界

ここでは、ノグチが日本文化のあちらこちらで感じた「軽さ」に着眼し制作した作品の数々が展示されていた。第1章とはまた変わり、シンプリズムがさらに高まったこれらの作品は、同時にポップさを増しているという印象だった。馬鹿な表現になってしまうが、どの作品を観ても「かわいい」という言葉がしっくりくる。プレッシャーを与えず、ふわふわと部屋を散歩している妖精のような、そういう「かろみ」が確かにあった。

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「坐禅」

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「太った踊り子」

タイトルからも分かるよう、ここでは作品自体に深い意味は持たせず、単純にそのものをいかに少ない材料で、大まかなフォームだけで表せるかに挑戦している気がする。故に深い考察はしないものの、ここでは人間の形について改めて考えさせられることになった。

トロントに住んでいる時、ギャラリーである作家の作品を見た時、一定の距離から見るとどう見ても喜びに弾ける人々であるのに、その距離を縮めていくとその全てが点と線でしかないという経験をした。そういう手法は昔からあるものだけれど、そんな点と線だけで人間がまるで感情あるように描けるのだという事実に改めて驚かざるを得なかったのだ。上に載せた2作品にしても、確かに坐禅を組む人間であり、太った踊り子に見える。人間が複雑で精巧に作られていると思っているのは人間自身だけで、動物からしたら私たちなんてみんな、このノグチの作品のように単純なフォームにしか見えないのかもしれない。

第3章 石の庭

最後の部屋となるこちらでは、ノグチが最晩年に香川の牟礼で制作した作品のいくつかが展示されていた。これら作品を見て、本当の意味でノグチの偉大さを知ったと言っても過言ではない。言葉を失い作品の間を歩き彷徨っていると、こんな言葉が浮かんだ。「ノグチは自然を凌駕したんだ」。浮かんだというよりも、頭が真っ白な中、突然誰かに肩を叩かれ囁かれたような、それに対し私はただ頷いたような、そんな感覚だった。
これまで私はずっと、人間は表現という意味で絶対に自然を超えられないと思っていた。自然が世界のなすがままに体を預け生み出す美しさに敵うものはないと。しかしノグチの作品は、自然が自然の姿である時以上に自然な姿を切り取っていると思ったのだ。自然自身すらが気付いていなかった自然の姿、とでもいうのだろうか。そんなとてつもない魂が、ノグチの切り出した石には宿っていた。

ノグチは石の話を聞き、自分は少し手伝うだけだと言っていたらしい。まさにノグチは自然によりただ単に動かされていただけなのかもしれない。もちろんノグチの持つ優れたデザイン感覚、バランス調和感覚なしには作品は生まれ得なかったわけだが、作品どれをとっても、それぞれの石の持つポテンシャルをあそこまで完璧に把握できたのは、やはり自分から聞こえる声だけでは無理なような気がしてならない。それくらいに圧倒的であり、美しいというだけでなく、そこにはこの地球と共に生きてきた石の持つ怒りや悲しみさえも含んでの表現があった。とにかく圧巻である。「ねじれた柱」を下から見上げた時には、恐怖さえ感じた。俺をみくびるなよと、自然が私を脅しているようにも思えた。言葉にならないほど美しいものを目にする時の感覚は、どこか怯えとも似ている。触れたいのに怖くて触れられない、その間に立つもどかしさはどこか性的興奮にも似ている。そうした感覚が渾然一体となりぐわっと襲いかかり、私はしばらく無意識にぼうっと突っ立っていた。

さて思ったよりも長い雑感記録となったが(本当に雑な言葉で)、ほとんど思いつきみたいに足を運んだのが大成功な1日となった。これを機にノグチのことをもう少し深く知りたくなったし、牟礼にあるイサム・ノグチ庭園美術館に行くという新たな楽しみもできた。今展示を通して彫刻芸術への興味も湧き、また芸術の新たな面に触れる機会も増えそうで嬉しい。

今夜は鑑賞したノグチの作品を、ゆっくりとワインを呑みながら再思考してみることにしよう。

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