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WAKO Works of Art Gallery「How does it feel? - Wolfgang Tillmans」展にて

2020/11/27 金曜日

"I wanted to keep the focus close to photography,.....what it answers and leaves unanswered in people...."
私はずっと写真という存在を観察し続けていたかった...それが私たちにどんな答えを与え、そしてまたどんな疑問を残していくのかを...

 この言葉は雑誌APERTUREにて今展示アーティストであるヴォルフガング・ティルマンスが、スイス人哲学者であるマーティン・へグルンドとの対談の中で語った言葉の一部だ(会場の一番奥の部屋にその全ページが展示されてある)。
 今展示の主旨は、まさにこの言葉に集約されているのではないだろうか。

「How does it feel?」
彼はこの問いに、どんな想いを込めたのだろうか。
雑感ではあるが、感じたことを記していくこととする。

 音楽を作っている感覚で展示というひとつの曲を仕上げている、という印象がまず最初に感じたことだった。
 会場で配布される案内に「旧作から最新作までさまざまな時期に制作された写真作品と、その小ささと写真作品とは異なるコンテンツが展示全体に軽快なリズムを与える」と書かれてある通り、会場に一歩足を踏み入れると、瞬時に自分が音楽の中に入り込んだ気がした。
 私は今回が初めての彼の単独展示をみる経験だったが、過去の展示の様子をオンラインで確かめてみると、同じようにサイズの異なる作品を散らばらせたり集合させたりと、音符を並べるかのように配置されているのをみることができる。
 会場は彼にとって楽譜線だ。作品である写真は「音」を表し、写真のサイズや枚数の程度で音の強弱や和音数、配置させる位置でキーの高低、写真の色合いや空気感はトーンや音の深みを、余白部分は休符や音の余韻を示している。観客である私たちはそこでは観客ではない。私たちこそが、楽譜をなぞりながらその音楽を奏でる指揮者であり、奏者となる。

 今回彼が生み出した音楽は一体どんなものだったのか。私という奏者が見つけた答え、それは「触れるための」音楽である。

 「音楽」「感じる」という言葉に共通するもの、それは「無形である」ということだ(ここでの「感じる」はあくまで「感」に中心をおいた、形がないが降り落ちてきて侵入してくるもの、と考えて欲しい)。
 しかし彼はその形がないものたちをこちらに差し出しながら、私たちに「触れる」という体感を残していくのだ。そして、触れていないことがいちばんよく触れている状態なのだと、そういう禅問答のような、しかし確かな確信を覚えさせるのだ。

 案内の中にはこうも書いてある。
「新型コロナウィルスの拡大リスクを鑑み来日を諦めたティルマンスは...海を隔てた彼方から「どう感じる?」と語りかけています。...人のつながりが分断されてしまった現在に置いて...決して自らの殻に閉じこもることなく、絶えず人とつながろうとし、他者の存在とその視点を愛おしみ制作の糧としてきたこのアーティストの本質=opennessをよく象徴しています。」

 私はこれまで特別ティルマンスを好んで追ってきたファンというわけでもないし、それ故に彼の語ってきた言葉や思想は全く知らないわけだが、実際に会場で作品を目の前にこの言葉を読んだ時、「はて、本当にそうなのだろうか?」と疑問を抱えていた(たとえそれが本人の言葉であったにせよ)。何故ならば、私が目の前にしている写真はどう見ても、意思をもって殻に閉じこもった人間にしか出せないもののように見えたからだ。そしてその先に見つけたドアを開けて広がった景色が、本展示であるように感じたのだ。open(開く)ためにはまずclose(閉じた)状態が前提としてなければならないことを、彼は決して見落としてはいないと、それら作品は証明しているように感じられた。

 今展示の裏に「他者との距離を強制された社会」があるのだとしたら、その上でティルマンスが目指した「つながり」とは、closeの先に見えた他者のもつ質感に対する想像の爆発、とでもいえばいいだろうか。私たちはそのものがそこになければもちろん「触れる」ことはできない。しかし私は確かに「触れていないのに触れている」感覚を覚えた。それを現実的な表現に言い換えれば、「まさしく今そのものに触れていると確信しても良いほどの強い感覚」を私の身体が「忠実に再現」していたということなのだろう。想像が爆発してある域を超えた時にしか生まれないそのリアルな感覚の起爆剤の仕掛け人。それが今展示を彩ったティルマンスという写真家である。

 有形なるものは証明はしやすいが、それが故に有限であるともいえる。そして無形なるものは証明という点においてはほとんど効力を持たないが、逆にいえばアメーバのように無限に広がりを持つことができるともいえる。
 写真とはそもそも不思議なものだ。目の前に有形のものとして存在しているものを写すことで、シャッターを切った瞬間にそのものの有形性を奪う行為が写真を撮るということだ。写真を見る我々は確かにその有形性を認識しながらもどうしようもなく知覚することができないという間に立たされる。写真の中に写っている何かに感動したり心を奪われる時、私たちはそのものに対する想像力という無限の力を働かせている。想像することもまた無形の行為であり、その原動力は「感」である。彼が今展示で私たちの前に課すものは、『己の思う想像力の限界を押し上げろ』というものだ。そして彼はそこでしか得られない「接触」を、その肌で確かめろと言ってくるのだ。

 写真は有形の答えあるものを私たちに与えながら、しかし同時に証明する力を失った宙ぶらりんな物体を私たちの視覚を通して内に侵入させ、私たちは本当は一体何を体感したのだろうか?というあやふやな疑問を残す。
"What it answers and leaves unanswered in people." 

 会場を後にする私たちにもう一度、ティルマンスはこう尋ねる。

How does it feel?

 その最後の問いは「感じろ」と命ずるものではない。私たちは今まさしく無形のものをこの肌に「触れた」存在として、何を思うのかと問われるのだ。

 もちろん私たち傍観者が真にこの展示会場で目にするあらゆる存在に触れることは不可能だ。しかし私たちはこれまで生きてきた中で触れてきたあらゆる感覚と記憶を総動員させ、それらに近しい肌触りを、温度を、そして匂いをもこの身に感じるのだ。大切なのは同じ事柄を間に挟み向き合い、同じ体験をすることではない(同じ場で同じものを目撃したとして、全く同じ経験なんてそもそもあるのか)。漠然とした似たような何かだとしても、その対象を目の前に、同じ方向を向くことだ。ティルマンスという写真家は、自身の目を通して目撃した世界をこうして私たちの前に差し出し、同じ方向を向くことを望んでいる(事実、私たちは彼と同じ方向からその対象を見ることになる)。そういう風に私には感じられた。

 その方向にあるものは、光と影の、答えと疑問の、愛と憎悪の、あの世とこの世の間を揺れ動いている。不安定な居心地の悪さの中に、しかし私たちにはひとつだけ確かな救いをみる。それは私たちがひとつの方向へと瞳を向け、みようとしているということだ。少なくとも、今展示を経験する観者は、その方向性へと自然と誘導される。

 今展示名を疑問文として用意したのは、彼自身もそんな「間」に立たされているからなのだろう。答えと疑問の間で、彼はカメラのレンズをひとつの方向に向け続ける。そこで映されるものの総体の中から、ひとつの答えを発見しようと試み、同時に増える疑問を得ることも望んでいる。彼はきっと、果てのない観察を目指している。今展示で彼はこれまでの観察の一章を音楽にのせ、私たちにその楽譜を手渡す。私たちはオーケストラの指揮者として奏者として、その音楽を奏でる。そして私たちの目の前で耳を澄ます誰かと、また新たな無形の接触を試みるのだ。

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