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2月16日(火)

 今日は1時間ほど残業して帰宅。今日から甘いものを控えようと思いいつもより糖分摂取が少ないからか、なんとなく落ち着かない。夜は食べないというルールなのに、今チーズと少しだけのチップスを許しながら赤ワインを呑んでいる。いかんいかんと思いながら・・・

 今週はどうしてか疲れている。今日もまた変な夢をみたし、どうなっているのやら。また寒くなるらしいので、春がまた遠のけば元通りになるのかしら。今日の疲れは、昨日ラジオを付けっぱなしで寝ていたせいで、途中で大きな音がして目が覚めたせいもあるけれど。日本のラジオは全然聴かなくなったのに、何を言っているかほとんどわからない韓国語のラジオならいつまででも聴ける。そのおかげでイントネーションや発音は上達している気がするけれど。あとはやはり韓国の最新の音楽から昔の音楽まで幅広く知ることができるという特典はある。音楽を掘るにはラジオは必須媒体だ。海外に住んでいる時にもいつも現地のラジオばかり漁っていた。好きなチャンネルをかけながら、同時にその番組のウェブサイトを開いておけば、今流れている曲がチェックできる。学校の勉強で机に齧り付いていたはずが、気がつけば音楽発掘になっていた。というかいまだにそうだけれど。映画も本も写真も時々中断してしまうけれど、音楽だけは一日も欠かさずに関わる。だけど広くて浅い中途半端な私はその業界で仕事に就くことはなかなかできない。そういうところがたまに、とても、嫌になる。

昨日の夜、ヨーロッパ旅行の時に撮り溜めていた動画を使って簡単な思い出動画をつくった。作品としてではなくただの思い出クリップを作るのもなかなか楽しい。第一弾としてスウェーデンのヨンショーピンという街に友人家族を訪ねて行った時に撮った動画を繋げてみた。全ての時間は収められないけれど、それでも日々が蘇る。写真とは異なる、生身の思い出が浮かんだ。

なんだかお疲れの今週の出勤も明日まで。あとはバイトと自分の作業だけ。今年の春に新しい作品を出したいので、構想とアイデアをそろそろ出し始めなければならない。昔は見栄を張って誰かのために何かを作りたいなんて思っていたけれど、今の私は自分を知るために制作にかける全ての時間を費やしたいと思っている。私は自分が好きで、自分が嫌いだ。私は誰かのことを知りたいと思うのと同じくらい、自分のことが気になってしょうがない。それを探れる唯一の方法が、書くことだったり写真・動画を撮ることだったり、音楽だったりする。機会があれば演技もやってみたい。そういうことをやっている時、私は私でありながら私を忘れることができる。だからこそ自分が見えてくる。それをただなんとなく感じるから、やめられない。

 言語を学ぶのが好きなのも、そのせいもある。母国語である日本語以外の言葉を話す時、どこかに隠れていた自分がその言語を扱おうとする中で自ずと出てくる。私にはこんな面もあったのかと、ただその言語に添おうと思っていただけなのに、自然と出てくる。他言語を話すことは、演じることと似ている。自分でありながら、自分ではない何者かに簡単になれる。他人に理由を説明する必要もなく。自分を愛せるのは自分しかいないという。だけどそれは自分としてではなく、自分を他人として扱うことができて初めて、自分を愛するという状態が生み出されるのではないだろうか。自分に固執する人間はどこかで捻くれる。近すぎで視点がぼやけて、結局何をみているのかわからないのだ。距離を持つという意味でも、100%は使いこなせない他言語に頼ることでその状態に近い状態を生み出せる。だから私にとって他言語を習得することは、その近道であり、一番簡単な方法なのだと思う。

 これは自論だけれど、全ての文化は言語から発生していると思う。それぞれの言語のリズム感や節により、音楽の構成も自ずと変わってくる。どの時代にもこれまでにないような音楽を生み出そうと努力する人で溢れているけれど、これまでにない音楽を生み出せるのはおそらく、言葉の概念すら持たない生き物なような気がする。だけど言語は人の生きるどの時代にも存在するから、なかなかたどり着くには難しい。今の時代はミックスが重要だなんてことも聴くが、真新しい何かを掘り出すのは至難の技だろうと思う。なんて、音楽家でもない私が偉そうに言うのは簡単なのだけれど。

 さて少し酔いも回ってきたし、ここらへんで切り上げることとする。今日の一曲は朝見つけたこの中国の曲。『麺麺』という名の通りのびのびした曲な上に、何故か中国語だとそれがさらにのーびのーびした感じになるから不思議だ。これも間違いなく、言語の力。


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