男は、捨てたはずの夢を追える「物理的余裕」がある。「半分、青い。」で見せつけられた父親と母親の性差。
昨日、わりと感情的な記事を書いた。
子育てにおいて、圧倒的に母親の分が悪い。というようなこと。
昨日、わたしの地雷をさらりと踏んだ旦那に対して、自分で考えているより感情的になっていた理由は、NHKの朝ドラ「半分、青い。」のせいかもしれない。
最近ネットフリックスで、過去のNHK朝ドラ「半分、青い。」が観られるので、時間があるときに観ている。永野芽衣が主演、佐藤健など豪華キャストの作品。
※ここから「半分、青い。」について思いっきりネタバレするのでご注意を。
昨日観ていた回は、話が中盤~後半に入り、ちょうど主人公のスズメが、小さな子どもを抱えて育児に奮闘しているとき、夢を捨てたはずの旦那が、やっぱり夢をあきらめきれずに「家族を捨てる」と言い出した回だった。
そのシーンを見た瞬間に、その旦那に対して「死ねばいいのに」と思った。
それが、奇しくも現在放送中の「ちむどんどん」について旦那と話した直後。「ちむどんどん」に登場する長男がボンクラで、旦那が、その長男がボンクラなのは「母親が甘やかしたから」と言って、わたしの地雷をさわやかに踏んだ後だった。
わたしの中の何かのスイッチが入った。
主人公スズメとの間に子どもが生まれて、目の前の子育てに忙殺されるスズメをよそに、旦那は捨てたはずの映画監督になる夢を諦められず、結局、スズメと子どもを捨てて、監督になりたいと言い出す。
「こいつ、死ねばいいのに」とわたしが思ったのと同時に、
主人公スズメが
「死んで。死んでくれたら許してあげる」と言った。
マジで共感の嵐。
脚本の北川悦吏子さん、さすが東京ラブストーリーからずっと私たちの心を分かってくれている。
【訂正】東京ラブストーリーの脚本は坂本祐二さんだった。北川悦吏子さんは「ロングバケーション」だった。マンションの上階からスーパーボールを落として受け取るあのシーンが懐かしい、キムタクをスターダムに押し上げた名作。失礼しました。
男は、捨てたはずの夢を追える「物理的余裕」がある。「ごめん」て逃げちゃえば、その捨てたはずの夢を拾う物理的時間が作れてしまう。
個人差はあると思うが、少なくともわたしは、自分の子どもを捨てて、終えなかった夢を追うということはできない。
できるだけ育児と自分の生活のバランスを取って、やりたいことをやれるようにする、とか、そのための準備をする、とか、できてもそんなレベルだ。子どもがもっと小さいころは、自分の夢とか考える暇もないくらい目先の世話に追われていた。だってほっといたら死んじゃう生き物を生かしておくだけでも精いっぱいなのだもの。24時間セコム状態なのだもの。
そういう24時間セコム状態をしている母親に対して、男は「やっぱ夢諦められないわ」とか言うわけだ。
そりゃ「頼むから死んでくれ」と思ってしまうだろう。
育児放棄とか言われているお母さんだって、たぶん、目の前の子どもが自分が世話をしなければ生きていけないことくらい分かっているんだと思う。想像でしかないけど。
頑張ろうと思ってるけど頑張れない、頑張り方が分からない、助けてもらえない、助けてと言っていいのかもわからないし、助けてもらってよいのかもわからない。なにか言うと「母親だろ?」と言われる。という葛藤の中で、もう無理、となってしまっている人も多いのではないかと思う。あくまで個人の想像です。
専業主婦だったわたしでも「どうしろってんだい」というような八方塞がりな気持ちになったことは何十回もある。そこに金銭問題とか絡んで来たら、本当にどこから手を付けてよいかわからないような大きな問題に膨れ上がってしまうだろうな、と思う。子どもをちゃんと育てようと思うと、自分の時間を子どもにささげつつ、食費や生活費の確保が大前提となる。
そこで盾となる男性のサポートがないって、マジで捨てられた気分になる。
それって、平等、不平等とかでなく、「持って生まれた性差」みたいなものもあるのかな、と思う。
じゃあ、男がやればいい。ってもんでもなく、母親にしか気づかないことがある。個人差は当然あると思うが、本能的な母性みたいなもんが、息子を前にしたときだけムラムラと湧き上がる。
昔、ママ友とお茶をしていたときに、向かいの席の男性が抱っこ紐で赤ちゃんを抱えて、なにか保険の契約だかなにかの相談をしていた。そのとき、抱っこ紐の中の赤ちゃんが泣いた。それでも男性は「おーよしよし」と言いながら、泣かせっぱなしで座りながら保険の説明を聞いていた。
こういうときにムラムラする。
「違う、そうじゃないだろ、お前は立て。赤ちゃんはその座っているのが嫌だって泣いてんだよ。お前が今やることは、立ってなんとなく揺れながらぐずってる赤ちゃんをあやしながら、その保険の話を聞くことなんだよ。」ということだ。
ママ友とお茶をしていたのだが、お互い同じことを考えていたので上の空。
母親たちにとって育児とは「子どもを抱いておく。」ではなく、「子どもの意図を汲んで、それに応える」もしくは、こう育てたい、という将来的なビジョンを持ったうえで子どもに接する、ということだ。
だからお菓子ばっかり食べるなとか、ジュースばかり飲ませるなとか、そういうこともうるさく言うのだ。その場で生きてりゃいいや、な場当たり的なこととは違うものを背負っているのだ。
「育児」というくくりの中に、そこまで見えているかどうか、というのが、父親と母親の違いなんじゃないかな、と思う。当然個人差はあるので、あくまで個人の感想です。
だけど、だからこそ「おむつ替えてまーす」みたいな「行為」にフォーカスした「イクメン面した男」にもモヤっとする。
そこに至るまでの経緯、たとえば、おむつ調達、おむつの替えどきの見極め、とか、そのへんは母親がやっていたりする。
わが家に関していえば、塾の送迎は旦那がしてくれているが、そこまでの道のりが長い。
塾との授業方針について先生とのやり取り、振り替えが発生したときのやり取り、試験日程や授業の進め方の相談、そして息子が塾に行く前に課せられた宿題ができてなくてぐずっているときの対応、行かせるまでの準備(気乗りしないから自分でしない)。
そして旦那が送っていくときに「面倒くせぇ」とか「賢かったら塾なんか行く必要がないのに」とかいう余計な一言へのモヤモヤ。など、目に見えない部分で相当調整をしている。この縁の下の支えがあってこその「旦那による塾への送迎」なのだ。
見えない家事、見えない育児、めちゃくちゃ多い。
うちのトイレットペーパーが常になくならないのは、わたしがなくなりそうになったら買うからだ。誰かがインフラを支えているのだ。
そう思うと、水道も電気もガスも当たり前に通っているのは、誰かがインフラを支えてくれているからなのだな、と感謝の気持ちが湧きあがる。母親になったおかげで、いろんなことに感謝ができるようになったが、いろんなことに腹が立つようにもなった。一長一短だ。
ツラツラとあれこれ書いたが、要はやっぱり、圧倒的に分が悪い部分が大きいけど、やっぱり母親ってすごいなぁと思う。
自分の母親もそうだし、自分が母親になってみて「ただの自分。」だったところから、自分よりもずっと大事な「息子」という存在が生まれた。
そして、いままで全くできなかった掃除や食事作り、そして朝の早起きも、息子のことなら頑張れてしまう自分になっていた。
やっぱり昨日書いた、西原理恵子さんの「毎日かあさん」の通り、
「現場は大変だけど楽しいよ」というところだろうか。
「やっぱ夢を諦められない」とか言ってる場合じゃない火事場に居続けなくてはならないからこそ、女は強くなってしまうのかもしれない。
母親は分が悪いと思いつつ、自分はめちゃくちゃ成長していて、そして、子どものふとした一言とか、そんなささいな、ほんの一瞬に、その苦労や想いが報われるような体験をするときがある。
分が悪いと言いながら、身を削って、クタクタになったからこそ、思えることがあるのかもしれない。
ほとんどの時間を育児に追われているセコムなわたしたちに与えられるご褒美は、子どもの成長だったり、なにげない「これ美味しい」という言葉だったり、ささいなことだ。だけど、その何気ない日常が一番ありがたいことなのかもしれない。
今日も明日もドタバタは続くけれど、たまに訪れる、その一瞬のふとしたご褒美で報われて、また日々を頑張ってしまうわたしなのであった。
今日もお読みくださりありがとうございました!
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