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伊勢日記 6巻

12月5日

7時半起床。

朝ごはんのあと自転車で出かける。コメダ珈琲に寄ったあと、神宮徴古館へ。伊勢神宮で用いられる衣服や調度品、またその歴史を描いた絵などが展示されている。どんなものが収められ、どんなことが行われているのか、その一部を垣間見ることができる、おもしろい展示だった。神宮美術館と農業館にも行く。

そのあと内宮まで行く。土曜日の昼だからかひとが多い。6時くらいに行ったときは静寂に包まれていた境内が、今日はにぎにぎしい。昔のお伊勢参りもこんな感じだったのだろうか。おはらい町まで行くと、鎌倉の小町通りくらい混んでいたので(伝わるだろうか)、寄り道もほどほどに帰ることにする。自転車であちこち移動したので今日はなかなか疲れた。

わたしは描いたり書いたりするために、自分のなかで考えをまとめることが必要で、こうしてあれこれ書くのだけど、伊勢神宮へ行くと、いつもの「深さ」よりも深いところにもたくさんのものがあることがわかって、切実な感情がしばしば浮かび上がってくる。

小川洋子さんのように深く、適切な温度で、エゴを超えたところで偏愛を描けたらと何度も思う。自分はエゴがつよく、シンプルでない。もっと深く潜りたいと思うけれど、むずかしい。

むずかしさの正体は、なんだろう。

それは、ふんわりとふくらむ布のなかの気配に似ている。なにも見えない空間に、とてつもなく大きなものを感じておそろしくなる、あのとき。圧倒されるあまり自分を見失ってしまうかもしれないという不安は、森のなかでも、海のなかでも、見知らぬ街のなかでも、家族との暮らしのなかでも、訪れる瞬間はある。自分を見つめ、心を探れば探るほど、自分の姿が小さく、頼りないことに気がつく。むずかしさはそこから生まれている。そのことを認めないと進めない。

「絵に、いいね、してもらえるとうれしいですね」と後輩だった子が連絡してきた。本当にそうだねと返事する。続けることは本当にむずかしい。わたしにできることは限られているように、ひとがわたしにできることも限られている。自分が「続ける」と決めたら、そのたびに誰かと手を携えながら、自分の足で進んでいくしかないのだと思う。わたしはそのことをずっと孤独でさみしいことと思っていた。けれどその孤独ははたしてさみしいものなのだろうか、と思う。

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