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伊勢日記 8巻

12月7日

部屋の清掃のあいだ外にいようと宿を出る。カフェに入ろうとしたらまだ開店前だったので、外宮へ行くことにする。用事で外宮の近くを通ると、なんとなく吸い込まれるようにお参りしてしまうなあと思う。ほとんど毎日行っているような気がする。

お参りを済ませたあと、せんぐう館の横にあるベンチに座ってぼんやりする。奉納舞台をたたえた池は静かでうつくしい。空気は冷えていても、陽の光が注がれている足元はぽかぽかとあたたかい。遠くのほうで鴨がのんびり泳ぎ、水面は絵に描いた星のつぶてが明滅しているようにまぶしい。ときどきひとがやってきて、写真を撮って去っていく。あまりに気持ちがいいのでしばらくそこで過ごす。それからカフェへ行き、月夜見宮へお参りして帰る。

今日したのはそのくらい。どこか気を張っているのか、体がこわばって重たくなっているのを感じる。これを読んでいるあなたに、「遊びでしょ」と言われてしまうかもしれないが、旅はいつも疲れる。どこかハイになっているから旅行中はそこまで気にならないけれど、家に帰ったあとぐったりしてしまう。今回は滞在期間が長いので、家に帰る前から疲れが出ている感じがする。いまのうちに整体に行っておきたいなあと思う。

滞在中、いろんなひとのことを思い出す。今日は友達で絵描きの山田さんのこと。彼とは仕事について、ときどき話をする。東京で、イラストレーターとしてどう生きていくかを模索していたときには悩みが尽きなかったという彼は、真鶴に住んでから迷いがなくなったと言っていた。迷いのただなかにいたわたしは、解決の手掛かりを求めて「その理由ってなんですか?」と聞いたが、彼は「うまく説明できない」と言っていた。でもいま、伊勢に来て、その理由がすこしわかった気がする。情報が多すぎる場所は、本当に自分にとって必要なものが何なのか、よく見えなくなってしまうのだ。

さっき「伊勢でほぼ毎日外宮に行っている」と書いたが、それは他に足を運ぶ選択肢が少ないからだともいえる。お店も少ないし、閉店するのも早い(商店街は17時に閉まる)。でもそれはつまらないことではない。本当に必要なことを思い出し、触れられる。そういう感覚に近い。

世の中の楽しみの多くを知り、消費することだけが正しいわけではない。でも、暮らしのなかでそのことがわからなくなってしまう。見失ってしまったとき、悩みが生まれる。どんなに決意したことでも、暮らしのなかではだんだんそれは薄れていってしまう。それは自分の意志が弱いとか、そういうことではない。自分の意志は環境で作られるところが大きいからだ。

一見おだやかに見える川の水が重く速いように、「暮らし」もそのなかに身をひたすと、あっというまに進んでいく。大事に握っていたはずの小石も、知らないあいだにどこかへ行ってしまう。あらがえない流れに身をひたす、それが暮らすことなのだと思う。でも、それでも、大切にしたいことがあるなら、流れのなかでも体から離れないように工夫する必要がある、と思うようになった。そうしたって離れてしまうことがあるくらい、流れは速いのだから。

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