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さみしさの裏側にあるたしかさ

PCに向き合っているうちにだんだん胸がすーすーしてきたので、これはいかんと散歩に出る。みなさんは胸がすーすーすることはあるだろうか?わたしにはよくある。不安のサインである。

こういうときは、ひたすら歩くのがいい。何も考えず、ただ歩く。迷わず歩ける、なじんだ場所がなおよい。歩いているうちに、体のリズムにあわせて心模様が変化し、頭の中が整ってくる。

毎日歩く川辺では、すこし前まで満開だった菜の花に代わって、アカツメクサ、ナヨクサフジがいたるところで咲き乱れている。そのあいだでマツヨイグサがちんまりと咲く。

歩を進めていくうちにみるみる日が落ち、視界が暗くなる。自分の身体が闇の中に消えていくと、足元の砂利を踏む音だけが際立ち、ひとつのリズムになっていく。それを聞きながらまっすぐ歩いていると、胸のすーすーした感じはなくなって、高揚してくる。闇の中で木星がはっきりと光っている。自分にとって砂利を踏む音も、木星の光も、ここにいる自分をはっきりと感じさせてくれる。手ごたえ、のようなもの。

さみしさを感じるのは、いつか、どこかで愛を感じた記憶があるからだ。愛を感じた記憶があるから、いまそれがない(と感じる)ことが、さみしい。でも、いつか、どこかで愛を感じていたこともまた事実なのだ。いま、この身体を包みこむさみしさは、そのことも思い出させてくれる。そこには愛を感じたときよりもはっきりとした、ゆるぎない「たしかさ」がある。

帰りにスーパーに寄って、メロンとジュースとサバの干物を買った。ずっしりとした袋を下げながら、これも「たしかさ」だ、と思った。重力で感じる「たしかさ」もまた、愛の記憶と結びついている。


*いま読んでいる本


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