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うつすように書く、描く

夏目漱石の「写生文」を、勧められて読んだ。ご存知の方もいらっしゃるかと思うのだけど、「写生文」を書くうえで、作家のあり方について漱石の考えが書かれた文章だ。つよくひかれながら読み終え、気持ちが収まらなかったので漱石の墓まで詣でた。

昨日、花の絵を描いていて、ふとまたこの文章のことを思い起こした。対象を「いいな」と思う自分をいったん脇に置き、じっと静かに観察すること。それは漱石の書いていた、親が子を見るような感覚に近いように思われた。子が泣いても親は泣かず、しかし愛をもって離れて見つめている。

文章について書いている「写生文」が、絵についての気づきのきっかけにもなったと話すと、そのひとは「ある場所での気づきは別の場所での気づきにもつながると恩師から聞いたことがある」と言ったので、なるほどと思った。

一度深く交わった感情のことはずっと忘れられない。そのひとの抱いている悲しみや喜びや愛、そのひとつひとつが深く心につきささる。

ときどきそのうちのひとつを手に取る。乾いた地面に水がまかれたときのように、匂いとともに土が生気を取り戻し、種が芽吹き、若葉が露とともに開き、茎がわたしの背を超えて、花が咲く。そのうちの花がついたのをひとつ折って、手元に置いた紙のあいだに挟む。それが絵になったり、文章になったりはするけれど、形はなんであれわたしのやっているのはだいたいそんな作業のように思える。

その作業に昨日ひとつ新しい"方法"が加わった。そんなふうに思う。

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