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時間と距離をはるかに超えて想像力は飛翔する

Twitterにもすこし書いたのだけど、さまざまな土地へ行って展示をし、しばらく滞在しながら過ごしていきたいなあと思っていた。そしてこのコロナ禍でよりいっそう、場をもうけてひとと時間をともにしたいと思うようになった。

どんなにメディアが発達しても、心のある一点は埋まることはない。話したいひととの距離は遠く感じられて、行き場のない怒りや不安に体が燃え、誰もいない部屋で叫びたくなる。インターネットで本音が綴られて、つかの間の安息を覚えていたことが、遥か遠い昔のことのようだ。

展示などでその土地へ赴くと、そこで暮らすひとたちの暮らしをすこしだけ体験することができる。長野の諏訪へ行ったときは、ウインナーが入ったたい焼きのこと、県内は山で遮られているから文化が4つに分かれていること、諏訪湖畔でマラソン大会があること、そのあとに入る深い温泉のことを知った。

神戸なら、三宮は交通のハブになっていること、明石焼きは玉子焼きと呼ばれて一人で食べに来るひとの多いこと、ビルの合間にある坂の奥には山脈が見えていること、喫茶店は現金しか使えないことを知った。

そこで暮らすひとからしたらきっと普通すぎて、あたりまえの暮らしのディテールを知ることで、自分の身体が組み変わるような感覚がある。

わたしの暮らす世界は、日本という国のごく一部でしかない。わたしがそのことを理解するためには体ごと移動して、他者の暮らしを観察・体験しなければならないと思っている。本は日々の友ではあるけれど、本を読んでいるだけでは自分の想像の域を出ないことが多くある。実際に町を歩き、空気を吸い、喫茶店で休んだりすることではじめてその暮らしが生き生きと立ち上がってくるのだ。

一度滞在するともうその土地は自分とは別の世界ではなくなり、じんわり愛着もわいてくる。自分の想像の外にいるひとたちの理解にほんの少しだけ近づけるような予感もある。さまざまな暮らしのなかでどんな感情をもってわたしの作品が受け入れられているのか、それを知ることもまた大きな喜びであり、自分が進んでいくために必要なモチベーションへとなっていく。

願わくば、そういう活動を通じて生きる糧を得られるといいと思う。

このコロナ禍で受注の仕事はときどきむずかしい。その余波は個人に重くのしかかる。本当にたやすく暮らしの見通しは立たなくなり、呆然とする。誰かに責任がある、というよりは、結果的にそういう仕組みになってしまっている現状に戸惑っている。

「想像力を、共感を得るために使うなんてもったいない、想像力は何千年も前とか、もっとずっと遠くへ飛ぶために使うことができるんです」という東浩紀さんの言葉を聞いた。移動ができなくなるとどうしてもわたしは近視眼的になってくるし、唯一広がるインターネットの世界のなかではパフォーマンス過多となっていて、生身の言葉に触れることがむずかしい。

しようもない、中途半端な、形にならないような生き物としてのわたしたちの存在こそ愛すべきものだ。けれどそこにたどりつくにはどうしたらいいんだろう、そんな閉塞感に包まれていたときに聞こえてきた先の言葉によって、畳んでいた翼が大きく広げられるような清々しさがあった。わたしたちの想像力は距離も時間も超えて飛んでいける。

そう気づいたとき、いまのわたしには縁のない、ずっと過去のひとたちに対する、妄想と思われても仕方のないような感情もまた深く肯定されるような喜びがあった。自由に飛翔する想像力、それは深い愛なのだと思う。

いつもお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、これからの作品作りに使いたいと思います。