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「運命」的なもの

「運命」と思う瞬間がある。
射手座の宿命なのか、そういう瞬間に出会うと一直線に向かって対象にのめり込んでしまう。その対象は、ひとでも、動物でも、画材でも垣根はない。これは「運命」だと直感し、信じる。

あるとき、ひどく酔ったひとに「僕が結婚する前に出会っていればよかった」と言われたことがあった。それは言い換えると、わたしたちの置かれた状態が、動かしがたい「運命」ということだ。ともすると「運命」は、神の啓示のようにある日突然訪れるように思うけれど、本当は「運命」って、自分で選び、名付けるものだ。そして信じ続ける。だからそんなふうに、選ばない「運命」を簡単に口にするひとは信頼するに足らない。

そんなことを書いていたら、以前、なんであなたはそんなに自分のことを赤裸々に書くんだ、と言われたことを思い出した。当時はうまく答えられなかったけれど、いまはよくわかる。答えはすごく簡単で、わたしの体験したことに他人は興味がないと思うからだ。そしてこれを読んで、そんなことないよ、と言ってくれるのはたぶん、わずかでもわたしに好意を抱いているひとなのだと思う(わたしもあなたのことが好き)。

そんなこと言うのは冷たいだろうか、でもわたしはその先にある、わたしの体験を通じて得た何かを見てほしい。それで編み上げた何かを見てほしい。わたしはわたしの記憶を愛するけど、こうして文章にするとき、わたしの体験はひとつの素材にすぎない。

まあ、そもそも、こうして文章にする時点で補正がかかっているから、この話も半ばエッセイの形をした嘘だと言ってもいい。これを偶然読んだひとが、意味があると思った何かのエッセンスがきっとそのひとにとって本当で、意味があることなんだと思う。そしてわたしはそれを「運命」だと信じ、そこに精一杯の願いをこめる。

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