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孤独について

書きたい衝動に突き動かされて矢にもたまらず家を出た。だが、こういうときはだいたい勢いが勝って書きたいことがまとまらない。夕食時でにぎわうファミレスに入ったのもよくなかったなあと、早々にノートを閉じて店を出る。

本当は、孤独について書きたかったのだった。思春期のころからずっとつきまとっているつよい孤独感と、それに対する恐怖感について、向き合うときが来たのだと感じるできごとがあったから。

でもまあ、楽しい時間を過ごしているひとたちのなかで、孤独云々について考えても文章がまとまらないのは仕方ないので、駐車場の暗がりに立って一人書いている。孤独に蚊が寄ってきて、多少さわがしいけれど。

ネットプリントで、この絵を配布していた。今日(10/4)までプリントできるのだけど、いまの時点で330枚プリントされている。単純にすごい数だなーと思う。別の誰かへ送ったりもしてくれているようで、とてもうれしい。

無料、ということについて、もちろん考えなければならないことはあると思っている。それはわたしのなかの課題として考えていきたいと思っているのだけど、自分が絵を描く上でもっともやりたいと思うのが、「見えないものを届ける」ことだから、普段届けられないひとにも届けられることは、わたしにとってとてもありがたいことだ。受け取ってくださって、ありがとうございます。

今回、絵を配布しようと思ったきっかけについてすこし書いておきたい。

ここ最近、何人かの魅力的な方が、わたしたちのいる世界から失われた。彼や彼女たちが孤独を深めて、ここから去ると決めたことは、たくさんのひとの心を揺さぶったし、もちろんわたしの心もつよく揺さぶった。

こういうときの気持ちをなんとあらわせばいいのだろう。でも、この気持ちに安易に言葉を当てはめてしまうことは、わたしにとって避けるべきことだと思った。だからあいまいに揺らぐ気持ちを、いまだに心のなかに留めている。

どんなに有名なひとであっても、一人の生きるひとだ。その命が失われたことに対して簡単に哀悼の意を述べたり、ましてやその背景を勝手に推測して物語に仕立てたりすることはわたしはできない。

そういう自分はいつもどこかはっきりしない人間なんだろうと思う。ビジネスの世界において、誰かの「死」が大きな影響を与える、いや、もっとはっきり言えば「お金になる」面があるということを理解してはいる。けれど、自分の担っていきたいのはそことは相入れないところにある。それはきれいごとかもしれないし、向き合う勇気がないと言えるのかもしれない。

ただ、ごくごく小さな存在であるわたしも、世界の隅っこにあるこのnoteに、思いのたけを書かせてほしい。自分が見ているごく一部のことが真実であると信じて、見えない部分のことをないものとしてしまうことで、失われていくものがたくさんあるということ。もしかしたら、そこに大切な誰かがいることだってあるかもしれないということを。

だから、煮え切らないと言われてしまうようなことを、こうしてそのまま書き留めておく。歯切れのよい言葉に心ひかれそうになっても、簡単に言い切ることの暴力性を想像できる人間でありたい。誰かの孤独を、誰かの人生を評価する権利は、どんなひとにもない。

‪これを見ればこんな気持ちになれますと、約束された感情を味わっているだけの日々は、悲しい‬。

いつもお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、これからの作品作りに使いたいと思います。