FOR YOU 精神とは?

こんばんは!雨の日になると鼻水が止まらなくなるたけむです。(おそらく気温下がったせい笑)


今日はカンボジアで一時期支援活動をしたときに感じたことを書きたいと思います。


カンボジアはコロナ前までは急速に発展してきた国で特に首都プノンペンは一部の地域の開発が日本の都市部と同じくらい(建物単体で見ると上回っているくらい)の都市化が進んでいます。


一方でよくTVで学校を建てたり、スラム街が取り上げられたりと貧富の差が激しい国でもあります。


日本では考えられない世界がある!そこで僕も生活をして、何か力になれることがあるのではないか!と思いカンボジアに住み始めたのがかれこれ1年半前でした。


孤児院や日本語学校の支援に曲がりなりにも携わって感じたことは

「この子たちは支援を本当に必要としているのか?」ということでした。


日本では支援やボランティアは尊いものと位置づけられ、現にその通りだと僕は思っています。


ただ、その活動自体が「相手が求めていないもの」なのであれば、それは偽善であり迷惑にもなり得ます。


貧困地域=不自由・不幸な地域と定義するのは偏見でありますが、メディアでは一義的に捉えられがちです。


定期的に支援を行っていた孤児院では、教育や物資の供給をしたときに体全体で喜びをアピールする子もいれば、その場に来ようとしない子もいる。


僕はそれでいいと思っています。


ただ、その場に来ようとしない子に対して「支援をした」と言うのは違うと思っています。形式上の支援は目の前の人を助けたのではなく、自分自身を助けるため(ボランティアというステータスを得るため)だからです。


ボランティアが尊いものには変わりません。その尊さを維持するには相手が求めるものを提供するor相手の可能性を広げてあげることのいずれかだと思います。


仕事でクライアント様へ最適な提案をできるようにすることと同じですね。


と、ボランティアをしながら自分は感じたのですが、カンボジアの子どもの笑顔を見るために支援をする人もいるかと思います。その前提の意味は分かる気がします。


だって、めちゃめちゃかわいいんだもん。

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