言葉ほど怪しいものはない

私は〝言葉〟が好きだ💖


言葉を扱うことが得意ではなかった幼少期があるから、自分の言葉が誰かに伝わったときや共感してもらえるととても幸福に思う。

でも、言葉ほどあやふやで胡散臭いものはないとも思っている。


言葉はただの形でしかないからだ。


言葉にはひとつひとつ辞書的に割り当てられた意味がある。


でもどうだろう?


人と話していると、同じ言葉なのに自分とはまったく違う意味合いを持って話しをしている人がいる。

でもその誤差をさらりとすり合わせてあっという間に仲良くなれる人もいる一方でまるで会話が成立しない人もいる。


どちらが正解不正解という話しではなくて、周波数が合わないってやつだと思うしかない。


人はそれぞれに辞書を持っている。

それは育った環境、今いる環境が違うからだとかいろんな要因があるとは思うのだけれど、それがいわゆる前提が違うって奴なのだけれど、



要するに、言葉ってほとんど実態がないものだなと思う。



でも私たちは言葉というものにすごーく振り回される。


誰かの言葉に一喜一憂したり、
それは一体どんな意味なのか?真意はなんなのだ?と探りたがる。


例えば芸能人や政治家のポロリと出た一言に目くじらを立てて謝罪を要求したり、
彼氏(彼女)からのLINEの一言にこれは一体どういう意味か?そこに愛はあるのかそれとも冷めたのか云々と何時間も、時には何日も頭を悩ませたり…


(これって一見主体的だったり当事者意識を持ってるようにも思えるのだけれど、実は違う。
感情の撒き散らしであることが多い)



理解し合う姿勢も工夫も必要だけれど、私は思う。


根本的に自分以外の誰かの言葉に一喜一憂して振り回されるのは、



自分の言葉がないから



なのではないかと。



自分がその言葉にどんな思考を意味を乗せているのか?

どんな意味を持たせてその言葉を使っているのか?

たぶんあまりにも無自覚なのだと思う。



知識の問題ではなく、
知的レベルの問題ではなく、
本をどれくらい読んでるかとか、
コミュニケーション能力の問題でもなく、



自分に無関心なのだ。



だから他者の言葉に、外側の事象に振り回される。



つまりは他人軸なのである。



自分軸になればなるほどある種冷めてるくらいに冷静になる。

何かの事象に触れて心が乱れたとき、



自分の中の何に反応しているのだろう?と内側に意識が向くからだ。



内側に意識を向け、自分の中に浮かんできたもの、灯った光を掬い上げる。
それが、心→頭の順に、じゃあ自分はどうしたいのか?どう考えるのか?どう思うのか?となって、最終的に対外的に人に伝えるためには?と言語化を試みる。



この時、自分の持っている言葉(ボキャブラリー)というものをものすごく疑う。



掬い上げてきたその思いにこの言葉は本当に適切なのか?と思うから。



ここで初めて言葉に向き合うという作業を行なうのだ。


逆に言えば他人軸であるときの自分の言葉はほとんど意味を為してはいない。


誰かからの受け売りであり、誰かが使っていた言葉にすぎない。





そして驚く。



あれ?手持ちのボキャブラリーじゃ表せられないかも!?と。



本を読んだり人の言葉や考えや表現に触れることの意味はここにあるのだと思う。



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