栗を焼く

今日も一日、一寸の陽射しもなかった。ここにいると、太陽をお天道さまと呼び、お日さまを拝むという、まさに天の恵みへの感謝の気持ちに心から頷く。いま、私は北ドイツの街に住んでいます。

晩秋の午後、おやつどき。薄暗く淀んだ空気に呑まれて何もすることがないとぐずる気持ちを追いやるように、栗を焼いた。子供達と一緒に無心になって皮を剥きながら、温かい栗の実を頬張ると、なんとも言えず幸せな気持ちになった。綺麗に剥けると、ことのほか満足だ。焼け具合によって異なる色が微笑ましい。ほのかに甘く、香ばしい味が思い出を掻き立てる。自分が子供の頃は、家族や親戚と連れ立って栗を山からたくさん拾ってきて焼いて食べたことを、子供達に語り聞かせた。私たちが今暮らす北ドイツでは、栗はお店で買うもの。森で木ノ実を拾うという営みが、いかに豊かなことか、思いを含ませながら。

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息子がふと口を開いた。「どうしてイングランドにいた時は栗を食べなかったの?」こたえに詰まった。本当だ、なぜだろう?こんなにおいしいのに。「だって、忙しかったのよ。栗を焼いて、皮を剥いて食べるーその前に下ごしらえもしないといけないし、大変じゃない?それにそんなにゆっくりお家にいなかったでしょう?いつも公園で遊んでいて。」ー母を亡くした今、栗の焼き方すらわからず、ネットで検索して試行錯誤の上、フライパンで簡単に焼けることがわかったが、それに取りかかろうという気力と時間がやって来るまでに、子供が生まれてから10年かかったということだ。

そういえば、私が長年取り組んできたアートも、栗を焼いて食べるようなものだと思った。少しとっかかりがいる。火が入ると、夢中になって追いかける、もっといいものを、さらに別のものも。結果を結ばないもの、思惑違いもある。そして時間もかかる。それでも、優れた作品との出会い、その経験は、何ものにも変えがたいものだ。経験は自分の心身に取り込まれるが、誰かと共有することでもっと強くなる。ー独り占めしようかのごとく、黙々と栗を頬張り続ける娘を見て、この子たちにもそのような経験を生きる日がいつか訪れるのだろうと遠く眼を細める。

アルプスの北では栗は採れないよ、と半ば諦め顔でさとす両親に対して、子供達が言い張るー「森の学校で、”食べられる栗”を見つけたよ!」イギリス、北ドイツとヨーロッパでも北方で暮らしてきた我が家では、栗に似た「栃の実」は秋になると、拾い集めてはおもちゃにして遊ぶが、食べられる栗の実は、自然の中ではお目にかかれない。無理だと思っていた。だが近くの森に、1本だけ栗の木があるという。鹿にあげたら喜んで食べていたんだと。お天道さまからもたらされる恵みは、深く暗い森の中にも届いているのだ。そうだ、来年は、栗拾いに行こうか。森の中をじっくり歩いて、探してみるのもいいかもしれない。





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