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バリキャリと東京に憧れた私の、はじめての一人暮らし

バリキャリウーマンに憧れて、新卒で総合職の仕事に就いた。全国転勤のある会社で、当時神戸の実家に住んでいた私は東京で働くことを希望していたが、配属先は大阪。人事との面談でも「東京で営業をやりたいです」と伝えたのに、「大阪で内勤」という配属発表に悔しい思いをしたことを、私は今も覚えている。

(ただ、今となっては配属はこれで良かった、と思っている。やっぱり人事の人って見る目あるんだな・・・この話はまたいつか。)

そんな私の父は営業職で、全国に営業所があったため転勤が度々発生した。西日本を中心に、両親と妹と私の家族4人で数回引越しをした。中学と高校でそれぞれ一度ずつ転校したのは特に辛い出来事だった。

「なんで私だけが引っ越さなきゃいけないの、みんなずっと同じところに住んでいるのに」

そう何度も思ったし、引越し直前に妹が日記に「離れたくないな」といった内容を書いているのを見つけてしまった時は心臓がギュッとなった。

母は専業主婦で、料理も上手、そのほかの家事も自分では不得意だと言いながら完璧にこなしていた。「どうせ引越しするし」と家は買わずずっと賃貸マンションに住んでいた。度重なる転居で部屋に対する審美眼はプロ級になっており、FAXで父から送られてくる候補のお部屋リストを見ては「ここが気になる」「ここはxxの近くだからダメ」など色々と注文をつけていた(父は大人しく従うタイプで、バランスの良い夫婦だ)。

「実家にいられる間はいればいい」と言う母は、私が「一人暮らししたい」と言うと若干キレ気味に「なんで?」と返してくるほどだった。逆らえない第一子長女の私は、モヤモヤしながらも大人しく従った。

「いつか東京で働いてみたいなあ」

バリキャリの聖地、東京。だって東京にたくさんビジネスチャンスがあるに決まってる。うちの会社の本社だって東京だ。関西にいる人生の先輩たちも「人生の中で一度は東京勤務を経験しておくといいよ」と言っていたりする。私もいつか、東京で働いてみたい。スターバックスのコーヒー片手に、トレンチコートを着て、A4が入るバッグを持って、忙しく働くんだ(過度なミーハー)。

一人暮らしを一度も経験していないので、お部屋のイメージはイマイチ湧かなかった。

しかし大阪での仕事も楽しく忙しく、先輩や後輩はもちろん同期にも恵まれ、3年も経つとそのことは思い出さなくなっていた。


そんな5年め。部長から突然「ちょっといいか」と呼び出された。

「え、あ、はい」

慌てながら机に置いていたペンとメモを持ち、そそくさとミーティングスペースに入る。

「突然なんだけど、岡山へ行ってくれないか」

青天の霹靂、とはこのことである。

この頃の私は大阪でいわゆるリーダー職になることを目指していて、早いと4年めでリーダー職になる同期もおり少し焦っていた。でも仕事にはやりがいを感じていたし、純粋に仕事が好きで、楽しかった。そんな中で「転勤あり総合職」であることを、もはや私は忘れてしまっていたのである。異動発表のある時期は何となくそわそわしていたが、部長に呼び出されたこの日は期末が近いタイミングでもなんでもなかった。

「わかりました・・・」

ノーと答えることとか、なぜ私なのかと聞くつもりはなかった。

私の父親は、会社への忠誠心が高く、転勤もどんどん受け入れその後出世していった人だった。私はそんな父に憧れて総合職を目指した部分も少なからずあった。時代も今と違うので「転勤を断るなんてありえない」そういう考えを私も理解していた。だって、「転勤あり」って最初から条件に書いてあるんだもの。会社の命令を断るなんて、家庭都合などよほどの理由がなければできない。(と私は思っていた)

戸惑いを隠せない私に、部長が話を続ける。岡山で新しいプロジェクトが始まること、岡山に今オフィスがあるわけではないのでその準備から入って欲しいこと、同じグループの会社が岡山にあるのでそこと連携して欲しいこと、このプロジェクトの東京側の担当者・・・などなど、決まっていることは概ね教えてくれた。このプロジェクトについては実は社内ですでに公にはなっていたのだが、てっきりベテラン社員が行くのだろうと思い込んでいた。

まったくもって情けない話なのだが、部長の話を聞きながら私は泣き出してしまった。声は抑えたが、ぼろぼろと涙が止まらない。止めたいのに、できない。実はこの日の直前に婚約していた彼氏と別れていた(この話もまたいつか)。

「神などいない」

彼氏とも別れ、住む場所も変えさせられる、人生ってひどいな、神様って意地悪だな。悔しい、悲しい、困惑、不安・・・。転校生時代にも岡山には住んだことがなかった。新しい仕事へのドキドキなんてなくて、ただただ混乱した日々が始まった。

いざ転勤が決まると早いもので、仕事なら仕方ないと踏ん切りもついた私は大阪での引き継ぎを大急ぎでやり(気合の入った資料を作ったりした)、出張で岡山入りし、その日のうちに部屋を決めた。

土地勘がない場所での部屋探しは難しい。しかしこれまでの両親の知恵が役に立ち、オフィスからの距離、昼夜の街の様子、スーパーは近くにあるか?など様々な点を考慮して、一人暮らしにしてはちょっと広めの新築マンションに決めた。

地方都市に行くと家賃が安くなることが多いのはありがたい。コンロも2口、1Kだが8.9畳の部屋は、背の小さい私にとってはとても広かった。「大阪だとこんな部屋には住めないだろうなあ」そんなことを思いながらはじめての一人暮らしが始まった。

岡山での仕事は新規プロジェクトということもあり、多忙を極めた。朝始業時間よりかなり早めに出勤し、夜中まで働いた。毎日のように夜食を買うため会社の近くのコンビニの位置は完全に把握していた。私の少し後に同じく関西から転勤してきてくれた仲間がいて、職種は異なるが共に仕事をしていた。心強かった。

気に入っていた広い家では、平日はあまりゆっくり過ごせなかった。

だけど、自分の物だけを置いて、自分だけで暮らしていくことで少しずつ自信がついた。家事は苦手だが生活するうちに慣れていく。知り合いもおらず土日はそれなりに休めたので、凝った料理を作るのに没頭したりした。母にとってのキッチンは聖域で、若干の潔癖症なのか洗い物さえさせてくれなかった。「私だけのキッチン」は、私の心をちょっと豊かにしてくれた。

岡山駅の近くは、路面電車も走っており道は平坦だ。自転車で移動するのにはもってこいで、「晴れの国」として有名な岡山を何度もペダルを漕いで散策した。

今も、ありありとその街並みや風景を、晴れた青い空を思い出せる。泣きながら自転車を走らせた田んぼの横道、オフィスに続く車通りの多い道路、夜中までやっていたうどん屋さん、そして私のお城であるちょっと広いマンション。全てがちゃんと自分の世界で、ちょっと寂しくて、でもちょっと誇らしい。親元から飛び立った鳥のような気分だった。

奇しくも、1年と数ヶ月後に大阪の仕事都合で急遽戻ることになるのだが、その時私は母に「このまま実家には戻らず、一人暮らしを続ける」と伝えた。母も「そうね、もう家電も一式あるし、頑張りなさい」と言ってくれた。その時の私は母の目にどう映っただろう、少しは成長できていただろうか。

夢だった「いつか東京で働く」が叶うのは、そこからさらに少し先のことだったことを、最後に付け足しておく。

#はじめて借りたあの部屋

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