見出し画像

あらためまして自己紹介〜苦手なものの話をたくさん乗せて〜8000字超!


目次

・はじめに
・トラウマの話
・それからの私と価値観のこと
・今向き合っていること


長い自己紹介をします

はじめまして。 
noteで自己紹介をすると意外と読んでもらえる、と言うのを察知したので、今さらながらやってみます。

noteは作ってからけっこう経つのではじめてじゃない方とかついったのおともだちの方とかもおりますが基本的にははじめまして、というテイでやりますね。


いきなりですが、
私は自分のすきなことを、人にすきと言うことが苦手意識があります。
すきなものを開示して、自分をオープンにすることがどうにもうまくできないなあと思うことが多いです。


じゃあコミュニケーションをとるのが苦手かというとそうではないです。

仕事は職種で言うと営業職をやっていて、職業柄、人とお話しをしないと始まりません。
仕方なく選んだと言うより、自分から好んで、むしろやりたくてなった職業で、クライアントと話をするのは楽しいです(四捨五入して)。
側からみて、職場の人からの評価とかですが、対人関係的に悩みを抱えてそうにはうつらないだろうなと勝手に思うぐらいにはそのあたりはまあうまくやれている方だと思います。

ただそれは表層で、そこのところはほころびが大きな亀裂にならない程度にしておけばなんとなくやっていけるものだと思っています。
表層とその内側、と言う感覚は私の中でとってもはっきりとあり、血液型がAB型なんですが、このあたりは自分の中に、いわゆるAB型だよね!って言われる二重人格の特性を自覚してしまうところです。

では、内側が何かというと、今回のnoteで語りたいこととしては、二次元とかオタクなことが好きな私です。
私は二次元の人(人って言ってしまうとほんとは違うんですが)、キャラクターが大好きで、好きのあまり創作をする人です。
生息している界隈は、某刀剣乱舞です。

そして、短歌を詠んでいて、これまた短歌もとても好きです。

(短歌を始めるきっかけなど短歌の切り口での私については別に語っているので、
ご興味あれば見ていただけるとうれしいです。)

年齢は30ちょっとになっていて、独身で、東北の小都市に住んでいます。
このあたりがざっくりとした私のプロフィールになります。

そして、ちょっと前まで

すきなことは、自分がすきなだけで、別にいい。
すきなこととか、目標とかは自分か周りの人に発信するものじゃない

そんなふうに思って生きてきました。
過去形なので、今はそれが変わってきていています。
むしろそんなのはつまらないし、それではこの先私が生きづらいと感じています。

けれど、ずっとその考えで生きていきたので、するりとマインドセットできるものでもなくてなんとなくモヤモヤしたものが喉的なところに引っかかって、いざオープンになろうとしても、いやでも・・・とめんどくさい虫が発生します。

だがしかし。それも含めてちゃんと向き合うべき壁だなと思うのです。
好きなことを発信してそれで食べて行くこともできる世においては、自分の好きをnoteのようなSNSはもちろん対面でもうまく言葉にできる人がきっと魅力的に映ります。
できたらその方向に近づきたいなと思います。

この自己紹介noteは私が自分のことを整理し、壁と向き合った履歴のようなものになると思います。

たぶん、きっと間違いなく長い自分語りになります。
最後までお付き合いいただけた方がいたら、もうすぐにでもお友達になって欲しいです。
では最初は、中学時代に遡ってトラウマの話をします。


中学時代にオタクと呼ばれて仲の良い子から無視された話

自分のことの整理なので、振り返りをしてみます。大事!
リードの通り、無視されてとても嫌な思いをしました。

「オタク」と呼ばれるきっかけは、ラノベ。
学校では毎日朝読書の時間があり、私はキノの旅とかブギーポップとかを読んでいました。
ある時、「変な女の子の絵が入っている気持ち悪い本を読んでいる」と、仲が良かったグループの子たちに指摘されて、何も言えず…
そんな出来事から「オタク」と言われ、昨日まで話をしていたのに急に目を合わせてもらえなくなる事態になりました。

どんなやりとりだったのかは割と曖昧なのですが、泣きながら農道を歩いて家まで帰ったことは確かな記憶です。

田舎であり、もうかれこれ20年弱前になるので、「オタク」と言う言葉は今ほどライトに使うものではなく、自分と違う性質を持つ他者に対して、異なることを批判しかつそこに社会的な地位の上下を与えるニュアンスです。


今もこれを気にしているわけではありません。
そんなことあったなあ、ほんと何やってたんだろう(笑)ぐらいで全然気にも留めていない話でしたね。

ただ、振り返ってみた時に、当時としては内面や行動を変えるようなものではあったのだなあ、と思っているので、ここにこの話をおきます。


高校デビュー、「普通の子」でいようと決意した私、そしてこれまで

わぁ、高校デビュー、懐かしい響き。そんなタイトルのりぼん漫画ありましたね。
今の子たちは言わなそう笑
脱線は置いておいて。

中学のオタク呼び事件は、中学3年生の秋ぐらいだったと思います。
そんなことがあったので、私は高校にあがる時、「普通の子」でいよう!と心に誓いました。

中学生までの私は、学校でラノベを読んだり、地元からの趣味の合う友達(クラスが違かった)と休み時間・放課後に廊下で漫画やゲームの話をしたりと堂々オタクをしていました。
けれど、クラスに行けば趣味で繋がる友達ではなく、クラスのカーストでいう上位めのグループの子たちとつるんでいて、(ステータス的にそっちのがいいなと思っていた)
そういうちぐはぐなところがありました。
(オタクと呼んだ子たちはそういうのが面白くなかったのかななんても思います)

なので、高校では私本来好きなもの(RPGゲームとかラノベとかそれに伴う創作とか)は全力で見せないようにして過ごしました。
これが案外うまく仮面を被れていたのですが、というのも、オタクで仲の良かった友達とは学校が違ったうえに、部活もちゃんとやっていて、家に帰れば課題に次の日の予習復習が山のようにあって(課題の量が多い学校でした)手を伸ばす余裕どころではなかった感じです。

普段の話は、友達が好き!と言っていたものとか周囲の話からトレンドを摂取して、それに合わせるような感じだったと思います。
「いいよねそれ!」「えー私も好き!」
周りに合わせていれば、普通でいられると思っていたのですね。

大学生になってもこの意識は継続していて、いわゆる「キャンパスライフ」の実現を目指しました。

クラスや友達の間で話題になっているテレビをみて、音楽を聴いて
かわいいねって言い合って意見があった洋服を買って、コスメを揃える。
おしゃれなカフェに行って、友達と恋バナをする。
あんまり真似っこだと面白くはないので、みんなの好きからそれない範囲に収まるような私らしさを目指しつつおりました。

青春時代は個々の感性が育まれる時だと思います。
好きな作家の本を手当たり次第に読んだり、有名なそれこそ国語の教科書に出てきて名前は知っている作家の本はあらかた読んでみるとか、ひたすらバイトをやってお金を稼いで貯めたお金で貧乏旅行をしたり、推しに有り金全部注ぎ込んだり、ゲームに明け暮れて引きこもりみたいになったり、そういうはみ出すようなとっぴなこと、側から見たらばかみたいなことをやって失敗して反省したり、苦労をして学びを得たり、ただだだ経験値をあげるようなことを、やっていたら良かったなあって思います。

最初にできた友達を守って、その範囲だけで生活をしていました。
好きなことがあって、好き勝手にやって、その先に友人・知り合いがつながってくるような人間関係で、ぜんぜん良かったのに、と思います。

学生生活を送るにあたって、基準となる人、私に「普通」を返してくれる人が必要でした。
最初にできた友達がそれになっていて、その範疇においての「普通」では、上に挙げたようなことはしてこなくて、目的としていたいわゆる「キャンパスライフ」をそれなりに送っていたとは思いますが、実際、人に語って楽しい学生生活は送ってきませんでしたし、振り返って豊かだったかと言われるとnoになります。

これを長く語りすぎると寂しくなるので、話を変えます。

散々「普通」を目指していたと言っていますが、普通にはメリットがあります。
それは、周りの人から『いいね』をもらいやすい、もらえる確率が高い、ということです。

根本は、友達(仲良くしてほしかった人)から遠ざけられたことにあるので、きっと嫌われたくない、という思考は人より強いものがあると思います。(そんなところで比べても何も生まれないのですが)
人に評価や支持をもらいつつ、人に嫌われないように暮らす。
それが第一命題。

好きとか、わたしらしさとかを押し込めていたことには気が付かずでも、それでわたしは私を守って暮らしておりました。


これまでの価値観を抱えつつ今、やりたいこと。

ひん曲がった価値観として、

趣味のことをオープンにすることは災いのもとである。
だから、本当に好きなことのくわしい話は滅多なことがないかぎり自分から口にしない。

人に嫌われないために「普通」であり続ける。
だから、周りに合わせて好きなものは調整をして、いいねって言われそうな感じに留める。


うまく言葉にできないですが、こんな基準を持って生きてきました。
ここまで書き出してみるとああ、恥ずかしい思いしかないのですが、
まあ、何を言ってもかえってこないので過去のことには腹を括るしかないです。

母親に良く言われた言葉があります。

過去と他人は変えられない。変えられるのは、未来と自分だけ。

今、自分で思い出して勝手に励まされてます笑

気づいてこうしてnoteにまとめる作業が未来に向けてのわたしなりの一歩です。
もう少し続くので、よければ最後までお付き合いください。

冒頭で、二次創作をやっていると書きました。

刀剣乱舞があるおかげで、推しがいることで、推しを自分なりに短歌というデバイスを使って表現する手段があることで救われています。


推しを、ゲームで、自分の創作で、他の人の創作で、舞台で、摂取したい!という欲望を叶えるために仕事をしていると言っても過言じゃないし、それ以外の日々のことも頑張れちゃっています。

オタクでいい、推しのことしか見えてなくてもいい、好きでいていい、とTwitterに、TLのおともだちに教えてもらっています。
勇気をもらっています。
仕事をしながら原稿をして、イベントに間に合うように本を作って自分で設営をしてイベントで頒布をして…!本を出さなくても、日々学業や仕事をして、その合間に絵を描いたり小説を書いたり…!
忙しい忙しいと言いながらも推しとの時間を楽しんでいる姿、めちゃくちゃ尊いです。

そういうのに勝手に背中を押されて自作品の本、という名の短歌集を私も作りました!(実はもう3冊めです)

推し活はもちろんですが、それ以外においてもいいことがあって、これから頑張りたいこととして、自分で本屋×カフェ×民泊の施設を運営したい、というのがずっとあるのですが、そちらも私はやるよ!という意思表明を周りにちゃんとしよう、と思っています。

これまでは仕事やその他のことにかまけてずっと手をつけずにきました。
雇われるのではなく自分で事業をするというのも、「え、うまくいくの?」「見込みは?」とか批判的な意見をもらうのが怖くて、自分の中で育ててはいたものの、「やっぱり会社員楽だよねー」みたいな発言をしてしまっていました。

2023年はこれを具体的に形にできるように、準備を始めて行くつもりです。

推し活に邁進する日々や創作活動の経験をかじったおかげで、私なりの思いを口にすることへの抵抗感が和らいで、少し発言を変えられているなと思っています。


ただ、最近推し活にずぶずぶになっているが故に悩んでいることが2つあります。

ひとつは、推しの解釈を自信を持って言いたい、のにハードルがある。

Twitterでのオタク、自分の推しへの解釈を開示したりします。
推しの解釈は人それぞれ。140文字で、創作で、声に乗せて、推しへの「好き」がどのようであるのかを伝えます。
それは、要は自己アピールでもあって、解釈がエモかったり深かったりすると共感を得られる。それはいいねやフォロワーの数になって跳ね返る。そんな感じです。

私も、うまくこれを語りたい。でも苦手意識が前に立つ。


投稿を打っている途中で、話している途中で、こんなにたくさん話したら嫌がられるかなとか、解釈が違っててたり理解してもらえないかな、とか考えてしまって、
思考が推しのことから自分のことに取られてちゃってる感じですかね、言語の整理ができなくてまごまごしてしまう感じになります。

元から会話は聞き役に回ることが多く、相槌をうって話を広げるタイプです。
性格的に、人に合わせちゃうので、自分から話題を提供するのはあまりしてこなかったし、「好き」も自分から発信しないので、「聞いて、この間これがめちゃくちゃ良くて!」をして、好きなものに人を巻き込むような経験がほとんどない。

そういう自信のなさは、人に多分伝わってしまうのかもしれません。

でも、私の解釈はあくまで私の解釈であって、仮に間違っていたとしてもそれは非難されたり否定されるものでもないのですよね。
フォロワーの話でも、人の解釈はいくらでも聞きたいと言っていました。
それなのに私は、理解されないかもしれない、と思って先に気持ちを塞いでしまっていて。
それは話をする相手に対してむしろ失礼でさえあるのですが、私はもしかして…と怯えを感じてしまうのですね。

私を話しをしたいからする。単なる一個人の一解釈を話すだけ、とライトに考えて苦手意識を持ちながらもトライしてみたいですね。
これは経験、好きを伝える行動で理解や共感をしてもらう成功体験を積むしかないかなと思います。
がんばります。


ふたつ目、SNS上から出たリアルな人間関係で、趣味のことをオープンにしたいけどハードルがある。


オタクTwitter歴も3年目になりました。
推しを推す生活も染み付いてきて、寝ても覚めても推しのことを考えています。なのに、普段はこれを隠すスタイルをとっており、それが最近、超絶ちぐはぐでつまらないことだと思えるし、息苦しい。
せんぶ晒してしまえたらいいのになあ、

最近は推しがいるのも普通な時代だと思います。
会社にもジャニーズ好きな子がいるのですが入社した時からすごくオープンにしています。プロレス好きという先輩も、pcの待ち受けは推しです。
堂々としてていいなあとこっそり憧れています。

ただ田舎だし、職場も平均年齢若くないので、二次元への接点が薄い人が多く、それで言うと2.5次元なんて、何それ。な感じだと思います。

友達には推しのことは話したりしますが、二次創作をしてること、短歌をやっていることまで伝えてる人はいないです。

伝えるのはめんどくさい。
これまでの私で言うとそこ止まりなのです。

伝えた時に何かしらの反応が返ってくる。それが、「へえ(引き気味)」とか「なんでそんなの好きなの」とかだったら私が傷つくから嫌なのです。
好きなものに対して無反応だったり、社会的地位の低いものと見下げられたことも嫌ですし、イコールそれを大事にしている私自身も価値のないものだと言われているように思うので傷つきます。
私自身が否定されたようなものです。

中学の時も、そうして私はすごく傷つき、同じ状況になりたくないからずっと避けてきたのだと思います。

でも、それって私の心の貧しさです。多分。

好きなものイコール私ではないのに。
仮に、私が推しているものに対して興味なさそうな反応をされたとしても興味がないのは、私のことではないのに。
仮に、否定をされたとしても、その時何それ、と思っているのはあくまでそのコンテンツのことなのに。
仮に、私の話を聞く時の相槌が薄くても、もしかしたら疲れているのかもしれないし、私の話が下手で良さを伝えられていないだけで興味がないわけでもないかもしれない。


言い出したらキリがないぐらい、私が否定されているわけじゃない可能性があります。
それを検討することなしに、被害妄想になって先に傷つく。
そう、逃げてるのです。

でもこれって、私は傷ついた気でいますが、相手にとってもおもしろくないものです。
勝手に、どうせわかってもらえないってあらぬ想像をされて、遠ざけられる。
ココナッツカレーみたいなものです。
食べたら美味しいのに、いつものカレーの色と違うから選ばない。(ただの私の好みです)
食わず嫌いで、遠ざけられたらココナッツカレーにはどうすることもできません。お手上げ状態です。食べてくれない人と仲良くなれそうにありません。


もっと言うと、コンテンツに対しても愛のある行動ではないとも思えます。
パートナーのことを、二人だけでいる時は好き好きと言うのに、パートナーをよく言ってくれる人の前では「仲良しだよ」って言いつつも、別のところでは「別に好きじゃない」「あいつなんて」みたいな態度をとっていたら本当に好きかどうか怪しいですよね。

好きなものの価値を、人に合わせてあげたり下げたりする。
大事なものなはずなのに。
ちぐはぐです。

そんな人いたら、後から言ってることがバラバラだと知ったら、その人のことをよくは思わないですね。
「好きなら好きでいいのに」って言うと思います。

ええ、その嫌いな人。私のことです。


私と、他の人と、別の生き物だから感じ方なんて違って当たり前です。
なんで・・・私がどう思うか、と相手がどう思うかを一色単にしてしまうんだろうなあって思います。
なんで・・・私はこう考えてるけど、あなたはどうなの?ってシンプルになれないのかなあって思います。

違いはあって当然で、それを乗り越えられるようになりたいです。
誰かが普通で、普通の人と違うものは価値が低いなんてことない。
それは私の思い込みです。
価値が低いものを抱えている人がそのまま価値の低い人間になるなんてことはない。
それも私の思い込みです。
ばかな思い込みばっかりしています。



マザーテレサの言葉に、
「思考は運命になる」という趣旨の言葉があります。(ざっくり)

正しくは、

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
マザー・テレサ


小さな思い込みが思考になって、いつの間にか私をつくっている。ってことですね。
かなしいけど。
でも、それでいて、その逆もこれからに対しても言えるって思います。

今、見つめ直したおかげて少し見えてきたものがあります。
それを少しずつ思考にしていくことで、これからでも新しい言葉を、行動を身につけられるかもしれないという、余白があります。
明るい未来が見えます。

新しい言葉になれ!と思って、このnoteは書きました。

新しい行動として、私は何をしようかな。

堂々とアクキーとかバックにつけて、つっこまれるの待ちしようかな、週末何してたの?の話の中で、推しの舞台の配信見てました!ってラフに答えたらいいかな。

まあでも、無理して言うのが、この場合必要なことではないですよね、きっと。
公表することと隠そう、隠していなきゃいけない、という思考を捨てていることは微妙に違うと思うので、その状態ではありたいです。


この先は、人と違う趣味とか、人と違うかもしれない解釈を、その違いを自然として受け入れてそれはそれだと、楽しめるようになりたいです。

そうしたらちぐはぐ感がなくなって、もっと息がしやすくなるかもしれません。
私がもっと楽になるかもしれません。
自分のことを少しは好きになれるかもしれません。

推しも私のことをもっと好きになってくれるかも!!


やーとてもとても長くなりましたが、これにて終わりです。
これまでの私と今の私を紹介する、自己紹介です。(びっくり8000字越えました!)(苦手なものの要素が重たい!)
読んでいただきありがとうございました。


最後に。

一輪のこれはつぼみだこの夜と地続きにある明日で咲ける


---

短歌で二次創作をしている話は以下にあります。よければ。

短歌がたのしい!って話

はじめて WEBオンリーに出た話



この記事が参加している募集

自己紹介

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?