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30年間の泥沼人生からの生還〜私がカウンセラーになったワケ〜

こんにちは、初めまして。
自己受容専門カウンセラーのゆかです。

わたしはカウンセラーとして
ありのままの自分を認められず
生きづらさを感じている方が

自己受容をして自分責めを卒業し
・本当にやりたいことに挑戦できる
・唯一無二の自分に生まれ変わる
ためのカウンセリングサポートを行っています。



日々クライエントさんをサポートさせていただく中で
ありがたいことに

自分が嫌いだったけれど、こんな自分も可愛いなと思えるようになった。
ありのままの自分を受け入れ、抜けられないトンネルに光が差してきた。
・これまで我慢してきた気持ちに寄り添うことができ
 自分が満たされていくのが分かった


と言うお言葉をいただいています。

しかし
わたしがカウンセラーになるまでの人生は
決して順風満帆だった訳ではなく

むしろ泥沼の人生



ここに至るまでには
あまり他では話したことのない
暗い過去があるのです。


今では自己受容専門カウンセラーとして
活躍するわたしですが
決して順風満帆だったわけでも
特別なわけでもないということを知っていただきたくて

カウンセラーとして仕事をするに至った
いきさつをお話しさせてください。

✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼

わたしが生まれ育った家庭は
サラリーマンの父と専業主婦の母
妹の4人家族でした。


物心ついた時から両親の仲は悪く
家の中では日常的に怒鳴り声が響いていました。

物が飛んできたり
壊れる音がしたりすることは当たり前。

特に母が悲しみ
苦労している姿を間近で見ていたため

少しでも母の助けになるよう
わたしが頑張らなければと必死でした。

母の顔色をうかがい
自分の感情を押し殺しての生活。


母にとっての「いい子」でいること
母から見捨てられないように愛されること
最大の目標として生きていたのです。



一方、父は頭に血がのぼると罵声を発し
すぐに手をあげる人でした。


母もわたしも父からの暴力に怯え
父を刺激しないように
神経をすり減らす毎日



父が転勤族だったため、
小学校6年間で4つの学校を転々としました。


両親の顔色を伺うことに
慣れきっていたわたしは
仲の良い友だちができるどころか
転校するたびにいじめに遭い


家にも学校にも相談できる人は一人もいない。
いつも孤独でした


これ以上孤独になりたくない一心で
常に人から嫌われないようにするには
どうすれば良いかを考え


他人の評価を気にして行動するように
なっていました。



中学・高校時代になると
なるべく影をひそめ
目立たないように過ごしていました。


自分の発言がどう捉えられるかの恐怖におびえ

授業中に発言なんてできるわけもなく
友人もほとんどいませんでした。


クラスメイトたちが
楽しそうに学校生活を送っているのを尻目に

学校生活の楽しさなんて1ミリも分かりませんでした。
それでも、家にいるよりはマシだという思いで
日々が過ぎていくのをただ耐える毎日でした。

そんなわたしに大事件が起こります。
高校2年の時でした。




夏休みが明けてすぐ、生徒会選挙があり
各クラス一名ずつ候補者を選出しなければ
なりませんでした。


しかし、立候補する人は誰もいません。
クラスの空気がとても気まずい雰囲気に
なっていました。

わたしはその気まずい空気に耐えられず

「誰もやらないなら、わたしがやります」

と嫌な仕事の引き受け役のような形で
立候補してしまったのです。


今考えてもなぜそんなことをしてしまったのか
自分でも理解できません。


友だちもいないし目立たない
いわゆる陰キャの自分が生徒会の役員に立候補するなんて
何度振り返ってもどうかしていたと思います。


しかし手を挙げてしまったからには
選挙の準備をしなければなりません。

友人がいなかったわたしは

自分で自分の推薦文を書き
ポスターを作り
スピーチの練習をしました。


こんなわたしを応援してくれる人なんて
いないに決まってる。
何やってるんだわたし、身の程をわきまえろ。



そんな想いと闘いながら準備を進めました。
そして結果発表の日。


結果は予想通り落選。


別のクラスの当選した候補者が
大きな声で喜びを表現するかたわら


私は慰めてくれる人は誰もいない・・・
本当に屈辱的な経験でした。


それまでも自分のことが嫌いでしたが
この事件以降ますます自分嫌いを
極めていくことになりました。

高校を卒業する頃には
「世界で一番自分が嫌い」
感じるまでになっていました。


高校を卒業し
どうにか大学生になったわたしは
両親の元を離れ独り暮らしを始めます。


学業とアルバイトの両立は大変でしたが
初めて実家の家族から離れて暮らす
自由を噛み締めました。


やがて恋人もできました。


しかし、恋人ができて幸せなのも束の間

常に相手からの愛情を求め
束縛してしまう自分がいました。

相手を困らせて
自分への愛情を確認しなければ気が済まない

いわゆるメンヘラ彼女
なってしまいました。

当時の恋人はわたしを理解しようと
とても頑張ってくれました。

しかし、
いくら恋人が愛情を向けてくれても

愛情が全然足りない
寂しいという気持ちが膨らむばかり

わたしは不安感に耐えられず
自ら別れを選んでしまったのです。

その後は極度のモラハラ男性との関係で苦労したり
愛情不足が前面にでてしまう
自分の行動に苦しい思いをしたり。

恋愛は全く上手くいきませんでした。


大学卒業後の進路は

行政機関の職員を目指して
公務員試験を受けることにしました。


就職超氷河期と言われた時代。

希望の職種の募集要項を確認すると
「募集人数:若干名」と記載されています。

若干名って一体何人採用されるのだろうか・・・。


それでも実家からの経済的支援を受けずに
自分だけの人生を歩みたい
と思っていたわたしは

死に物狂いで勉強をしました。


辛い試験勉強・・・

ストレスで蕁麻疹がでて
たびたび腹痛に見舞われました。

そんな病院に通いながらの試験勉強。



病院の先生からは
「ストレスが溜まっていませんか?」
と聞かれましたが

当時のわたしは
「いや、、、ストレスは特にないと思います」
と答えていました。


決して嘘をついたわけではなく

この大変さは就職するためには
当然乗り越えるべき試練で
ストレスとは言えない


と本気で思っていたのです。


必死で勉強した結果
どうにか試験に合格しました。

採用されたのはわたしを含め4名。

そのうち女性はわたし一人でした。


ようやく自分で働いて自分の力で生活できる。
実家から完全に離れて暮らせる。
大人の仲間入りができる。


とても誇らしい気持ちでした。



しかし現実はそう上手くはいきませんでした。


就職して4年目
移動した先の職場で
そこで二人の上司から同時に
パワハラを受ける事態に見舞われます

会議資料の作成に必要なデータを渡してもらえず
会議直前まで資料が完成させられなくて
関係者に迷惑をかけてしまったり、

連絡事項を伝えてもらえずに
事業の運営に支障が出たり。


わたしの報告・連絡・相談ができておらず
社会人としての基本がまるでなっていない
との指摘を大声でされる日々でした。


他の同僚たちは
自分に危害が及ばないよう
見て見ぬふり。


執拗なパワハラを受け
徐々に職場に行くのが嫌になりました。


なんとか職場に足を運んでも
全く集中できない。


思考がまとまらない。

ミスが多くなり
同僚たちの前で
上司から怒鳴り散らされる日々が続きました。


半年ほどがたったある朝

いつものように重い身体を
どうにか起こして仕事へ行く準備をし

いざ玄関を出ようとした時のことです。

玄関のドアノブを触ろうとすると

今まで感じたことのないような
恐怖心が沸き起こり

ドアノブを触ることができません。

このドアを開けて仕事に行けば
またあの地獄のような1日が始まる。

そう思うと怖くてドアを開けることが
できなくなってしまったのです。


わたしは恐怖で玄関に座り込み
号泣しました。


さすがに様子がおかしい。
今すぐ病院に行きたい。


予約なしで
初回の診察を受けてくれる病院を
必死で探しました。


やっと見つけた病院は
入院施設もある大きな精神科の病院でした。

わたしはいくつかの検査を受けたのち
うつ病と診断されました。


今すぐ仕事を休みなさい
医師から伝えられました。


そんな時でさえ
仕事をしばらく休むなんて
あのパワハラ上司になんと伝えたら良いのだろうと
思考がぐるぐる回ります。

上司に報告しづらいと
医師に伝えたところ

「あなたの健康とこれからの人生がかかっている時に
上司に報告しづらいなどと言っている場合ではない」

と一喝されました。

幼少期から周囲の顔色を伺って生きてきたわたしは
こんな事態になっても
上司の反応が気になってしまったのです。



医師の後押しもあり
休職したわたしは療養生活に入ります。

うつ病との闘いは
本当につらく苦しいものでした。


一日中起き上がることもできず
食事も取れない日が続きました。


実家には戻らず
一人暮らしを続けていましたが
どうやって生活していたのかよく覚えていません。


抗うつ薬が効き始めて
少し動けるようになってからは

こんな人生今すぐ終わらせたいという思考に
さいなまれる毎日でした。


そんな中
わたしは二人のカウンセラーと出会います。


一人は通っていた精神科のカウンセラー。
もう一人は職場のカウンセラーです。

私は二人のカウンセラーから
定期的にカウンセリングを受けるようになりました


これまで自分一人で抱え込んできていた
家族のこと
職場のこと
自分自身のことを

初めてカウンセラーに語りました。


どちらのカウンセラーもただうなずいて
遮ることなく私の話を聞いてくれました。

涙も怒りも悔しさも
全部受け止めてくれました。

「自分の中に押し込み続けて
もう入り切らなくなった
気持ちや考えを全部出しましょう」と

優しく寄り添ってくれました。


それまでの人生で
ずっと孤独を感じていたわたしは

この時初めて
自分は孤独ではないのかもしれない
思うことができました。


仕事を休み治療を続けて約2年。
わたしはどうにか外出できるまでに回復しました。


医師や職場のカウンセラーとも相談して
少しずつ復職の練習を始め

時短勤務で職場復帰をすることになりました。


練習期間を設けたおかげで
職場に通うことには
だいぶ慣れていたけれど

いざ仕事をするとなると
上手くできるのだろうか?
とても緊張しました。

しかも、わたしを苦しめたパワハラ上司二人は
復帰先の職場にいるのです。


それでもなんとか職場復帰を果たし
不安と緊張の中で仕事に取り組んでいました。


復職して3週間経ったある日のこと。


始業のチャイムがなり
いざ仕事を始めようとした時です。

急にすさまじい動機とめまいで
わたしはその場に倒れ込んでしまいました。

何が起きたのか理解できない
パニック状態のまま

体調が悪いことを
なんとか上司に告げ
その日は早退することになりました。

そして翌朝
出勤の準備をすると

再びすさまじい動悸がして
動けなくなってしまいました。



その日以降
抑うつ感が以前よりも増して
自分に襲いかかってきます。

自分が情けなくて
自己嫌悪が止まらなくなり

こんな人生、今度こそ終わりにしたい

という気持ちが
再び湧き上がってきました。

食事もほとんど喉を通らなくなり
1日に白米を一口食べるのがやっとという日が
何日も続きました。

そしてふいに訪れる動悸。

動悸がすると心臓が痛くて、胸が苦しくて

このまま死んでしまうのではないかという
新しい恐怖がわたしを襲います。

人生を終わらせたいと思っているのに
動悸がして死にそうな時は
死にたくないと思う。


そんな感情と思考の大きな波に翻弄され
また家から一歩も出られなくなってしまいました。


こうしてわたしの職場復帰は失敗したのです。


2ヶ月ほど病院にも行けず
家で廃人のように過ごしていたと思います。


薬もなくなってしまっていたので
通院しなければと

重い体を引きずって
どうにか診察を受けに病院へ行きました。

しかし医師に
しばらく通院できず薬がなくなったので
貰いにきましたと告げると

「2ヶ月も通院なく
 急にのこのこやってきた人に出す薬なんてない」


耳を疑うような答えが返ってきたのです。



確かに前回の診察の1ヶ月後に
来院するよう言われていました。

しかしあまりの体調の悪さに
身動きが取れなかった・・・


その病院は予約制ではないので
通院できなくても連絡の必要はありません。

その医師は
わたしが通勤できなかった事情を確認もせずに
患者を見捨てるような言葉を投げつけたのです。

赤の他人に対して
煮えたぎるような怒りを感じたのは
この時が人生で初めてのことでした。


「そうですか、それなら結構です」

わたしは捨て台詞を吐き
病院を出ました。


これまでお世話になってきた病院ではありましたが
こんなところ二度と来るものかと思いました。

仕方なく違う病院を探しました。




新しく見つけた病院は
マンションの一室で
医師と受付係の二人しかいない

とてもこじんまりとした心療内科でした。


それまで通っていた病院は
診察を待つ患者さんで
待合室が常にごった返していたので

あまりの雰囲気の違いに
少し不安になりました。


その病院は
医師がじっくりと話を聞いてくれて

診察とカウンセリングを
同時に行うスタイルでした。


かわいらしい初老の男性の医師で
お顔を見るとほっこりする
とても心地の良い雰囲気です。


わたしは次第に安心感を覚えていきました。

新しい先生は毎回穏やかに
話を聞いてくれました。

話すたびに自分の内面に触れ
これまで受けてきたカウンセリング以上に
色々な考えや感情が湧き上がってきました。



診察が終わって家に帰り一人になると
様々なことが頭の中に浮かんできます。

自分の家庭が普通だと思って
生きてきたけれど

自分の境遇は
普通ではないのかもしれないということ。

精神的に支えになってくれる人がおらず
常に孤独感を抱えていたこと。


無意識のうちに多くのものに抑圧され
我慢をし続けてきたこと。

これまで考えることを諦めてきた
様々なことが頭をよぎり

ふと、家族から、
特に母から精神的に自立をしなければ


考えるようになったのです。


それから私の考えはガラリと変わっていきました。



これまで当然だと思ってきたことが
そうではないかもしれない。


誰に何を言われようと
自分がやりたいことをやっていい。


どんな親の元に生まれようと
わたしという命には価値がある。


完璧を求めることを良い意味で諦めよう。


自分の命を
自分の納得する形で使っていきたい。

病院でのカウンセリングと並行して
自分を変えるために良い方法がないか
情報収集を始めました。


手当たり次第に本を読み
気がつけば200冊以上の本を読んでいました。


そんな時、ある心理療法に出会います。


認知行動療法というものでした。


認知行動療法とは

物事の捉え方と行動に着目し
凝り固まった思考(認知のゆがみ)を
柔軟にしていく
ことで

ストレスを軽減させることを
目的とした心理療法です。


認知行動療法を知るうちに
自分には頑なな思考のくせがあることに
気がつきました。


独学で学び
自ら実践していくことで
数多くの思い込みの信念に気がつき

その信念が必ずしも正しいとは限らないことが
理解できるようになりました。


カウンセリングで自分の内面と向き合い
引きずったままの
過去の傷を癒していくとともに

思考のくせを少しずつ減らしていく


いつしか自分の物事の捉え方も変わっていきました。


わたしはこれまで十分頑張ってきた。

できないことも苦手なこともたくさんあるけれど
これが私という人間。

無理に頑張って
何かをできるようにならなくとも
私は価値がある人間だ。

自然とこのように感じることができるようになり

ありのままの自分を受け入れることが
できるようになっていった
のです。



1度目の職場復帰を失敗してから2年半。


自分の内面と向き合い続けた結果
今度こそ復職し
どうにか職務を全うできるようにまで
回復することができました。

当時の仕事は
とてもやりがいのある仕事だったけれど

休職中に自分と向き合うことで
心からやりたい仕事ではないのかもしれない

感じ始めていました。


そもそも就職を考えたとき
無意識のうちに親や世間に
良い顔をするために選んだ仕事だったことに
気づいたのです。


より自分に合う仕事があるはずだ


そう考えたわたしは転職することに決めました。


公務員を辞めた後
私はある総合病院の医療秘書(*)として
働くことになりました。

*医療秘書とは、診察室内で医師が行う事務作業を補助する役割で
カルテ記載の補助や検査室との連絡調整、
患者様へのご案内など総合的な仕事をする職種です。


その病院には様々な診療科がありましたが
中でも印象的だったのが小児科でした。

その小児科では
心理士によるカウンセリングを
定期的に行っており

多くの子どもたちが
カウンセリングに通うのを見ました。


同時に子どもに同伴する保護者も
子どもとは別室で
カウンセリングを受けていました。


わたしがカウンセリングに同席することは
ありませんでしたが

カウンセリング後に行われる
医師の診察には同席していたので

なんとなくではあるものの概要が
理解できました。


子どもたち以上に
保護者である大人たちの悩みが深刻そうだな。。。



たくさんの親御さんが
お子さんのことで悩みを抱えているのを見て


その根底には
親御さん自身が自己受容できない苦しみがあるのではないか・・・と
強く感じるようになったのです。


そんな光景を見るうちに
わたしは居てもたってもいられなくなりました。


これまで自分が悩んできた経験を
わたしの中だけで完結させるのではなく

この経験を通して得られた知識や感覚を活かして
苦しんている方の力になる
ことが

自分の使命だと感じるようになっていったのです。

思い起こせば
わたしのこれまでの人生が
思うようにいかず
苦しかったのは

自己受容ができていなかったことが
原因でした。


中でも
自己否定から生み出される自己嫌悪はとても根が深く

自分を責め続け
終わらない自己嫌悪に散々悩まされてきました。


自己受容ができて自分を責めることがなくなると
ありのままの自分を生きる道が見えてくる。


そのことを今苦しんでいる方にも知って欲しいと
強く思うようになったのです。

こうしてわたしは病院勤務を辞め
カウンセラーとしての道を歩むことにしました。


私生活では
自己受容できるようになるとほぼ同時に
今の夫と出会うことができました。


以前のように相手にすがる恋愛ではなく
自分の幸せのために
他者との良い関係を考えることができる
自分が
いることに気がつきました。


ひとり娘にも恵まれ
幸せな家庭を築くことができました。


娘には過去の自分とは違う
自由な人生を歩んで欲しいと願い

これまでの人生での教訓を生かしながら
のびのびとした子育てができている
と思っています。

子育ては大変だけれど
娘を一人の人間として
尊重して接する
ことができるのは

今までのしんどい人生があったからこそ
だと強く感じています。



もしも、うつ病で苦しんだあのとき
カウンセリングで自分と向き合わずにいたら・・・。
もしも思考のくせに気が付かないままでいたら・・・。


過去の傷を引きずり
どんなに足掻いても自分が嫌いなままで
世界が明るく見えることもなかった
と思います。

それに、自己受容できないまま子育てをしていたら

子どものことを受容できず
自分の親にされたのと同じような子育てを
してしまっていた
と思います。



ありのままの自分を受け入れ
自分の本当の声が
聞こえるようになったからこそ

何を選択するのも自由で軽やかな人生
手に入れられました。


自分と向き合うことは
とても勇気のいることだったけれど

これまで出会ったカウンセラーが
そばで支えてくれたからこそ
乗り越えることができたのです。

カウンセリングなくして
今のわたしは存在していなかったと
断言できます。



ありのままの自分を受け入れられない悩みは

重すぎるがゆえに簡単に他人に打ち明けることはできません。

だからこそ
共に歩んでくれるカウンセラーが必要なのです。


自分を責め続け
受け入れられず

どのように生きればよいか
道を見失ってしまっている方が

明るい未来に続く道を見いだすまで
寄り添い伴走する。

それが私のカウンセリングの姿勢です。


生まれ育った家庭環境などの影響で
自分を受容できず

自己の存在意義がわからないまま
生きてきた方たちに寄り添い、

唯一無二の自分を愛することができる人生
手に入れることができるようサポートさせていただけたら
これ以上に嬉しいことはありません。

一人でも多くの方が
ご自身の人生の主人公としてイキイキと生きられる毎日
手に入れていただくこと。

そして、他人に左右されずに
本当にやりたいことに挑戦できる人生
を手に入れていただくこと。

そのためにカウンセラーとして
自分の命を使っていくこと。


それがわたしの使命だと考えています。

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これまであまり語ることはありませんでしたが
30年間、自分を受容できず
苦しんできたわたしが
カウンセラーになるまでの道のりを
お話ししました。


あなたは決して一人ではありません。

このブログが
あなたが本当の意味で自己受容し
あなたらしい人生を歩むきっかけになることを
願っています。

最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。




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