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私の背骨のはなし その6は番外編

40代は、マレーシアでの3度の引っ越し、4軒の家での生活、途中から家族になって早5年になろうかという三猫士とともに過ぎた。戌年生まれで、もともとは犬が大好き。15歳の時、学校帰りに地元の東急ハンズに何度も通い、親も説得し念願叶って、自分のお小遣いで、今でいう譲渡のような形で1000円(男の子は2000円、女の子は1000円だった記憶)で買ってきた雑種の子は、あとちょっとで20歳というところまで長生きしてくれた。

名前は、りき。段ボール箱に入れてもらって家に連れて帰る車の中で、顔を見ながら「りき」だ、と思った。しかし、彼女は女の子。漢字で、利輝、と書くことにした。子犬の時は、シェパードのように見えたが、サイズは柴犬止まり。りきは、私のコルセット生活時代、毎日整体通い時代、彼女を両親にまかせっきりで、サークル活動や冬と春の長い雪山籠もり、海外留学から帰ってきた時、そして社会人になってからも、最寄駅から家まで歩いて帰ってくると、まだ大分家から離れているのに、気づいて、ワンワンッと鳴いてくれた。においかな?足音かな?いや、きっとテレパシーだ、と思っていた。いろんなことで頭がいっぱいになって、疲れた顔で下を向いて歩いていても、ワンワンッが聴こえると、遠くからでも「りき!」と私も応えて、笑顔になり足取りも軽くなった。

りきは、私に赤ちゃんが生まれたのを見届けて、バトンタッチしたよ、と(多分)言い残して、天国に行った。赤ちゃんの世話で忙しく、実家に戻っていたのに、もうすぐ虹の橋を渡ってしまうりきの世話を十分にしてやらなかったことが心残りとなった。そんな私に、何度もなんども一緒に遊んだ楽しかったことを思い出させてくれて、大丈夫だよ、幸せだったよ、と伝えてきてくれるりきには、今も感謝している。

猫は、どちらかと言えば、大して好きではなかった。可愛いけれどもあまり触れたこともなく、爪が尖っているから引っ掻かれるのではないかと思ったり、飼い主以外には懐かないようなイメージがあったからかもしれない。しかし、一人っ子の娘は、猫好きの夫とふたりで、可愛いねえ、猫欲しいねえと、ジョホールバルのそこら中にいる猫たちに近づいて行っては、連れて帰りたいねを連発していた。

少し広いコンドミニアムに引っ越してすぐにその日は来た。よく行っていた韓国料理店は、オーナーファミリーが大の犬猫好きで、店の裏で外猫たちの世話をしていた。母猫が妊娠すると、店の端に入れて世話をし、出産を助けて、仔猫たちの新しい家族探しをしていた。その日、食事しに行くと、仔猫が生まれて少し大きくなったので、裏の道でお母さんといるから見せてあげる!と。食後に、目をキラキラさせて、可愛い~、連れて帰ってあげようよ、という言葉に、そうだね、準備して迎えに来ようか、ということになった。

5匹兄妹だった。一生懸命にどの子を連れて帰ろうかと考えている娘を見ていて、折角だから兄妹で2匹一緒に連れて行ってあげよう、と言ってしまった!つい。寂しくならないようにね、と。後から、ふたりとも男の子だとわかったが、それもまた良し。名前は、りん(凛)とらん(蘭)。コンドミニアム内の新品の家具はすべてバリバリに爪とぎにされてしまい、引越の際にすべて買い取り、残りはデポジット全額で弁償ー。

2匹兄弟のりんとらんが成猫になった頃、今度は、マレー料理の店で朝ごはんを食べていると、足元に正座して見上げてきた子。野良猫とは思えないきれいな子で、ろんちゃん?と呼ぶと、にゃ、と応え、うちに来たいのと訊くと、にゃ、と言う。お店のオーナーさんがつい一昨日、自分の叔父が家から連れてきて、たくさんすでに飼っていて、もう飼えないからここで世話してやってくれ、と置いていったと言い、よかったら、連れて行ってやってくれ、と。すぐに箱を用意してくれて、そのまま抱えて帰った。学校から帰宅した娘は、びっくり!なに?タヌキ?茶色いふわふわの毛がタヌキに見えたようだ。なんだか洋風の彼の名前は、ロンドンの「ロン」とカタカナになった。

韓国料理店とママック(インド系ムスリムの軽食店)からやってきた、わが家の三猫士、りん、らん、ロン。彼らが家族になって、わが家の日本とマレーシア行ったり来たり暮らしは楽しさと幸せが増すのに比例して、さらに複雑になっていった。2カ月に1度は飛行機で往復する生活でも、時々、ジョホールバルの(私にとってのマジックハンドな)マッサージおばちゃんのおかげもあって、一人娘と3人息子を抱える母のS字の背骨は問題無し!

つづく。


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