料理は生き様

留学先にいる娘とチャットしていた。夏休みに帰国したら何をする、というような他愛のない話をしていたときに、料理がしたいな、基本的なものでいいから、というので、また一緒に色々作ろうね、と書いて、「料理はその人の生き様だからね」と続けた。深く考えたわけではなかったが、日頃からそのように思っていて、娘に伝えたいと思った途端に一言に集約されたようだ。

人世、というと大袈裟に聴こえるが、実際、人がどう生きるかということの根底には必ず、何をどう食べて生きてきたか、ということがあり、その人の様々な思考や言動、心の動き方、人との関わり方などに大きな影響を与えていると、私は思っている。どこの国や地域で生まれ育ち、そこがどんな気候や環境だったか、ということと同様に。いや、それ以上に。

人それぞれ、小さい頃に朝を迎えて布団から抜け出し、最初に口にしていた朝ごはんの記憶があるだろう。昭和的場面で言えば、お母さんが葱を刻んでいた音とともに思い出す、とか、私の場合は、トーストが好きではなく、ご飯がいいなと思いながら、毎朝こっそり残していたことなど。朝ごはん以外でも、玉子焼き、お味噌汁、はたまたカレーやラザニアといった母の味、父が特別な時に作る一品、学校給食のお気に入りや苦手料理、長く過ごした寮の食堂の味や、合宿中の割り箸が折れるような冷えたハンバーグ、アルバイトの居候先でほっこりできる時間の美味しいご飯の味や、学食の生姜焼き定食などなど。その人がいつでも思い出せる味には色々あるはずだ。

さらに、人が料理をし始めると、どんな料理を食べて生きてきて、自分はどんなものが食べたいのかや、人に食べさせたいと思っているのかが、その人の料理に現れてくるように思う。自身がものすごく小食でも素晴らしく美味しいお料理を作る人もあれば、食べるの大好き、と言いながら、食べられればなんでもいいのか?と思うくらい、その内容には無頓着な人もいる。

最初に触れたように、食べ物や食べ方が直接その人の生きることに繋がっていると感じていると、自ずと、出来ればより身体によいと思われるものを、良い組み合わせで、適量、より美味しいなと感じられるセッティングで食べたいし、大切な人にも食べてもらいたいと考えるようになるのではないかと思う。さらに、誰がどんなところで捕ったり、どんな気持ちで作った食材なのかを感じながら、自分はこれを誰のために、どんな気持ちで食べてもらいたいかなど考えながら料理をするというところにも繋がっていくように思う。

自分がどのように生きたいか、自分の大切な人にどのように生きてもらいたいか、そんな気持ちが料理にはしっかりと注ぎ込まれていると感じる所以だ。人に与えられた限られた生きる時間の中、食事ができる回数も限られている。その1回いっかい、一皿、一口となる料理は、その人の明日の生を作っているだけでなく、生き様も表している。

娘と料理をしよう。生き様を共有したいからー。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?